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家屋改良計画

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 開拓使は明治六年、後志通(南大通西三)に西洋式の商家四戸、爾志通と檜山通(南二~三条西五丁目)には三軒長屋と四軒長屋の官宅一六棟などを北海道での模範住宅として建築した。例えば爾志通と檜山通の長屋は、三軒長屋の一軒は間口五間、奥行四間、四軒長屋の一軒は三・五間、四間である。しかし市民たちが割り当てられた土地は、間口五間、奥行二七間の一三五坪が標準である。江戸の例を参考に札幌での建家を推測すると、その表通には五間の間口いっぱいの店舗兼用の住宅が建てられたであろう。その奥に、つまり裏通側に貸家(裏店)や蔵などを建てたと思われる。その貸家などは、土地の幅五間であるから、やはり近世以来の一軒が九尺二間の長屋二棟か、模範住宅一棟くらいを建てるのが適当な広さである。明治十四年の札幌を撮影した写真には、奥行三~四間らしい長屋が散見できる(写真8參照)。また二十九年になっても狸小路辺には九尺二間の長屋があったという(北海道毎日新聞 明治二十九年十月十四日付)。

写真-8 明治14年の札幌の街並(札幌市文化資料室蔵)

 もと様似通(東3丁目通)の遙拝所から南西(藻岩山方向)を撮影したもの。『地価創定請書』(市史 第7巻)によると、18番地福永官次郎所有地(270坪)、20番地島川大助所有地(270坪)、22番地渡辺淋太郎所有地(135坪)、24番地渡辺利三郎所有地135坪)である。諸史料から以下のことが推定できる。福永は料理屋。島川の前所有者広瀬金之助は函館からの募移商人(五十集)で、明治6年の不況の際に出奔した。渡辺利三郎は淋太郎の父親で、両者とも鍛冶職。淋太郎所有地の裏通(2丁目)側の小家屋に同居人立松周治(按摩職)、利三郎所有地の裏通側の長屋に新谷由婦、長山平三(畳刺職)、山本三左衛門、渡辺又右衛門、渡辺五郎松が住んでいたらしい。そのほか、もと浦河通側(東2丁目)にある長屋なども見える。市民の多くはこのような長屋住まいであったのだろう。井戸のつるべなども多数見える。長屋は写真からの推測では幅3間程度であるので、仮官邸(南2~3条西5)の長屋と同じ程度のものであろう。仮官邸の長屋群を模範長屋と呼ぶゆえんか。

 だが開拓使は、札幌を北海道の首都として整えるためにさらに政策を推し進めた。その例が九年九月の家屋改良の布達である。その布達のなかで、それまでに建設した官設の諸建築物について、「衆庶ノ模範トシ誘導ノ道ヲ開ケリ」と主張している。しかし市民は「今日猶未タ其意ヲ解セス、相応ノ資産有ル者モ、絶エテ防寒ニ注意スルヲ見ス」(布令類聚)という状態のままであった。十四年頃の街並を示すという写真を見ると、「屋根に釘を用ひず、隣人相援けて、目葺、鎧葺等となし、其上に玉石(豊平川より運搬売買す)を置き、石無ければ薪を用ひて、之を支えたり。因つて其勾配は五寸となすを得ず、凡て三寸となしたり、頗る粗造にして、また防寒にも足らざりし」(札幌区史)という状態である。このような家屋状態の問題は、防寒の問題と耐火の問題である。御用火事で草小屋を一掃したが、実際には耐火防寒建築の本普請の家屋をつくるにはまだ程遠い状態であった。やはり六年の不況で示されたとおり、移住民の出稼ぎ意識が強かったのである。先の布達文に示されたとおり、移住後成功して資産を持ったものたちでも、まだ耐火防寒建築の家屋を建築する意識にはいたっていなかった。つまり札幌に骨を埋めるという考えになっているものが少なかったことになる。したがって開拓使は様々な方法を用いて市民に家屋改良を説諭した。しかしそれに即座に対応する市民は少なかった。
 そのため開拓使は、「専ら防寒を主とし且つ火災の患なからしめんかため」に、十二年四月建築費貸与規則などを制定した。それによると、石造家屋一戸一二坪として一八六〇円で札幌では八戸分を予算化した(布令類聚、なお木造家屋は市中へは配分されなかった)。ところが石造家屋ではやはり出願者がいなかったため、十三年石倉土蔵でも許可することにして、やっと古川寅吉外数人が応募して土蔵を建築した(家屋改良資本取裁録 道文三九一四、石造家木造家土蔵建築費貸与調書類 道文五二四四など)。
 明治四年の松前函館からの移民以来、開拓使家作費貸与などを積極的に行い、一面では札幌の発展を画策し、一面では生活の近代化を画策した。しかしそのどちらも開拓使時代を通してみても成功したとは言い難い状態であった。そのため札幌市中が爆発的に発展するのは、諸工事が盛んに行われたり、官営工場が収支を考慮にいれず活発に生産活動をした時期だけに限られた。それらの事業にかげりのある明治六、七年や十三年には不況といわれる状況になり、札幌は衰退する。開拓使時代を通して札幌は、公共投資に頼らなければならない「開拓地」という性格を脱し切れなかった。