写真-8 明治14年の札幌の街並(札幌市文化資料室蔵)
もと様似通(東3丁目通)の遙拝所から南西(藻岩山方向)を撮影したもの。『地価創定請書』(市史 第7巻)によると、18番地福永官次郎所有地(270坪)、20番地島川大助所有地(270坪)、22番地渡辺淋太郎所有地(135坪)、24番地渡辺利三郎所有地135坪)である。諸史料から以下のことが推定できる。福永は料理屋。島川の前所有者広瀬金之助は函館からの募移商人(五十集)で、明治6年の不況の際に出奔した。渡辺利三郎は淋太郎の父親で、両者とも鍛冶職。淋太郎所有地の裏通(2丁目)側の小家屋に同居人立松周治(按摩職)、利三郎所有地の裏通側の長屋に新谷由婦、長山平三(畳刺職)、山本三左衛門、渡辺又右衛門、渡辺五郎松が住んでいたらしい。そのほか、もと浦河通側(東2丁目)にある長屋なども見える。市民の多くはこのような長屋住まいであったのだろう。井戸のつるべなども多数見える。長屋は写真からの推測では幅3間程度であるので、仮官邸(南2~3条西5)の長屋と同じ程度のものであろう。仮官邸の長屋群を模範長屋と呼ぶゆえんか。 |
だが開拓使は、札幌を北海道の首都として整えるためにさらに政策を推し進めた。その例が九年九月の家屋改良の布達である。その布達のなかで、それまでに建設した官設の諸建築物について、「衆庶ノ模範トシ誘導ノ道ヲ開ケリ」と主張している。しかし市民は「今日猶未タ其意ヲ解セス、相応ノ資産有ル者モ、絶エテ防寒ニ注意スルヲ見ス」(布令類聚)という状態のままであった。十四年頃の街並を示すという写真を見ると、「屋根に釘を用ひず、隣人相援けて、目葺、鎧葺等となし、其上に玉石(豊平川より運搬売買す)を置き、石無ければ薪を用ひて、之を支えたり。因つて其勾配は五寸となすを得ず、凡て三寸となしたり、頗る粗造にして、また防寒にも足らざりし」(札幌区史)という状態である。このような家屋状態の問題は、防寒の問題と耐火の問題である。御用火事で草小屋を一掃したが、実際には耐火防寒建築の本普請の家屋をつくるにはまだ程遠い状態であった。やはり六年の不況で示されたとおり、移住民の出稼ぎ意識が強かったのである。先の布達文に示されたとおり、移住後成功して資産を持ったものたちでも、まだ耐火防寒建築の家屋を建築する意識にはいたっていなかった。つまり札幌に骨を埋めるという考えになっているものが少なかったことになる。したがって開拓使は様々な方法を用いて市民に家屋改良を説諭した。しかしそれに即座に対応する市民は少なかった。
そのため開拓使は、「専ら防寒を主とし且つ火災の患なからしめんかため」に、十二年四月建築費貸与規則などを制定した。それによると、石造家屋一戸一二坪として一八六〇円で札幌では八戸分を予算化した(布令類聚、なお木造家屋は市中へは配分されなかった)。ところが石造家屋ではやはり出願者がいなかったため、十三年石倉土蔵でも許可することにして、やっと古川寅吉外数人が応募して土蔵を建築した(家屋改良資本取裁録 道文三九一四、石造家木造家土蔵建築費貸与調書類 道文五二四四など)。
明治四年の松前函館からの移民以来、開拓使は家作費貸与などを積極的に行い、一面では札幌の発展を画策し、一面では生活の近代化を画策した。しかしそのどちらも開拓使時代を通してみても成功したとは言い難い状態であった。そのため札幌市中が爆発的に発展するのは、諸工事が盛んに行われたり、官営工場が収支を考慮にいれず活発に生産活動をした時期だけに限られた。それらの事業にかげりのある明治六、七年や十三年には不況といわれる状況になり、札幌は衰退する。開拓使時代を通して札幌は、公共投資に頼らなければならない「開拓地」という性格を脱し切れなかった。