庚午移民には組頭、小頭がおかれ、移住・開墾のために統率・監督・差配などをおこなっていた。庚午移民で山形県の場合、移住前の三年一月にすでに組頭が任命されたことが、坂野元右衛門の例からもわかる。山形県では組頭(手当金一カ月一両)、小頭(三歩)が各五人任ぜられた(抜萃書類 道文一一七〇)。新潟県の場合は組頭三人、小頭二人で、庚午移民は八人の組頭に率いられる八班編成であった。
組頭が現地で任ぜられたのは、移住地への出発までの連絡・点検、移動中の引率もあっただろうし、移民の募集にも関与したためかもしれない。移住後は開拓使との折衝、移民の生活の監督もおこなったであろう。十文字龍助大主典の「御金遣払帳」(市史 第六巻)をみると当時の移民は、「移住民元右衛門組勝太郎病死ニ付御手当として被下」(六五二頁)と、組が帰属単位として掌握されている。種々の手当金や農具なども組頭を通じて支給されたようである。開拓使の指示・命令なども、「村々組頭共呼出置可申事」(十文字龍助日記 市史 第六巻七五六頁)とあるように、組頭を通じて伝達されていた。このように組頭・小頭制は、移民集団の編成と開墾作業を遂行するためにとられた、庚午移民特有の組織と考えられる。
札幌村は在来村のために組頭はいなかったが、四年三月に小熊善右衛門が任命された。彼の履歴書(札幌村郷土記念館)には、「札幌郡元村、同新村両村組頭役申付候事 開拓使」とされている。この時、旧イシカリ御手作場の札幌元村と庚午移民による札幌新村(庚午四ノ村)があわされて札幌村となり、彼はここの組頭に任命されたとみられる。彼は庚午移民の一員で、新潟県刈羽郡大窪村(現柏崎市)の出身であった。この場合の組頭は、村三役としての組頭かあるいは移民集団の長としての組頭か、判断に迷うところである。ただこれ以前、札幌村には名主、年寄がみられた。年寄はまた組頭とも呼ばれていた。この頃(四年四月)、札幌村では名主が菊地徳三郎から梅松嘉蔵へ、百姓代が梅松から柳沢宅四郎に代わっている。両人はともに御手作場の農夫であり、ここには組頭もみえない。百姓代梅松は村役人の順位からいくと、本来は組頭になるはずである。ところがそうではないのは、この場合の組頭は村三役の一つであると同時に、移住民の開墾頭を兼ねる意味をももっていたと思われるからである。