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村費

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 六年二月に開拓使は、町会所・村方取扱所の費用につき、四月と十月に二度にわけて開拓使から拝借した拝借金は「其市中或ハ村方ニ割当ル所ノ戸役銭ヲ以テ十月限リ返納可為致事」が通達された。これにより村費が戸役銭として各戸より徴収されることになった。村費は七年の大小区制の施行にともない区費と呼ばれ、この年五月二十三日に区入費分賦概則が施行された。これによると区費でまかなわれたものは、筆・紙・墨・油・炭などの消耗費、小使給料、道路清掃費、掲示場造営・修繕費、下水道修繕費などである。区費の徴収は各戸の貧富にしたがい、上中下の三等に区分されることになっていた。
 この時期の諸村の村費がどのようになっていたかはよくわからない。ただ十一年の場合、各村の一カ年の村費の報告が行われている(表7)。これによると最高は札幌村の六二円五〇銭、最低は月寒村の二〇円一〇銭と高低に非常に差がある。しかし、村費の高低は必ずしも村の戸数に応じたものではないようである。費目は各村ほぼ同じであるが、費目額は各村にばらつきがあり、同じ小使給料にしてもかなりの差が認められる。
表-7 明治11年村費調
村名筆墨紙代炭蝋燭代小使給料郵便代その他合 計
山鼻 13円97銭5厘 9円 36円1円50銭60円47銭5厘
円山 12. 4. 90銭 36道具調3円 55. 09
琴似 7. 58 2. 10 36  34小使賄代2円15銭 46. 28
手稲 6. 20 4 36 58. 45
手稲 6. 3 24 33
発寒 3. 60 2 18 23. 60
平岸 6. 98 4. 68 28. 80銭 40. 46
月寒 7. 14  . 96 12 20. 10
白石 8. 30 7. 28 36 50. 58
白石 3. 20 1. 08 24 28. 28
札幌 9. 70 4. 10 48 62. 50
苗穂 7. 2 36 45
丘珠 4. 50 3. 50 27 35
篠路 9. 25 2. 50 36 47. 50
『取裁録』(道文1951)より作成。

 この頃の村政事務は、各副戸長(ないし総代)の自宅にて行われており、炭・油・蠟燭代などについて〝公私混同〟の状態であったと思われる。小使給料の額にしても、平均一カ月三円あたりが基準であったようだが、四円や二円というところもあり、給料の額の決定なども副戸長の判断にまかせられていたようである。
 また後年にみられるような教育費、土木費などは一切みられず、必要最低限度の費目に押さえられていることもこの時期の特徴である。この頃はまだ開拓初期であり、村治や村落生活全般にわたる負担能力も限られていたと同時に、村落自治もかなり制限されていたため、自治にともなう負担は必要なかったのである。これが大きく変化してくるのは、十三年の戸長役場設置以降である。