北海道に屯田兵制度を導入する直接の契機となったのは、開拓使の次官黒田清隆が明治六年(一八七三)十一月十八日に太政大臣へ提出した建議書である。その中で黒田はこの制度を必要とする理由として「土地開墾ノ功」と「封疆ノ守、人民保護」の二つをかかげた。そのために「民ヲ移シテ之ニ充テ、且耕シ且守ル」ことにし、その民として「旧館県及青森、酒田、宮城県等士族ノ貧窮ナル者ニ就テ、強壮ニシテ兵役ニ堪ユヘキ者ヲ精撰シ、挙家移住」させようと考え、移住地としては「札幌及ヒ小樽、室蘭、函館等」を予定した。明治七~八年に各七五〇戸、家族とも三〇〇〇人ずつ、あわせて一五〇〇戸、六〇〇〇人を募り、住宅や移転費を給し三年間扶助を与え、開墾に従事しながら兵役に服させる計画である。建議をもとに政府は左院を窓口にして大蔵、海軍、陸軍省の意見をとりまとめ、建議内容の一部を手なおしし、大筋として承認することになり、六年十二月二十五日付をもって太政大臣の達書を与えた。この間黒田は岩倉具視、大久保利通等政府首脳と度々折衝し、懸案の成立に努めたのであった。
写真-1 屯田兵設置決定の文書(開拓使制旨録 道文)
この制度に類似するものは、イギリス、中国、ロシア等に古くから知られ、北海道においても寛政年間東蝦夷地に八王子千人同心の入地があり、安政年間には札幌をはじめとする西蝦夷地に在住制が試みられた(市史 第一巻八八〇頁)。開拓使設置後も度々屯田兵構想が生まれるが、なかなか実現しなかった。開拓使内部からは三年十一月、函衛隊の改組及び東京府貫属一二〇戸を札幌に移し一中隊を編成する案が出され、その内容は後日実現する屯田兵制ときわめて似ている。外部でも、陸軍少将桐野利秋や参議兼陸軍大将西郷隆盛の意見があり、特に西郷案は具体的で、黒田は後日回想し自分の建議は「西郷ノ説ニ従ヒ之ヲ実施」したという。また、六~七年に出された堀基、大山重、永山武四郎、永山盛弘、時任為基、安田定則等開拓使幹部の多くの意見を背景に、黒田建議が採択されたといえよう。