大隊本部には分隊単位で毎日交代派遣されたが、その中でも火薬庫番兵が負担だったという。藻岩山麓(現中央区旭ヶ丘)にある火薬庫にははじめ常駐の番人を置いたが殺害され、屯田兵による輪番守衛に変わった。札幌市中から火薬庫の詰所まで約四キロメートル、詰所から火薬庫屯所までさらに淋しい山道で、一時間交代の番兵は緊張の連続だった。楽しみといえば市中の弁当屋が日に四回天秤棒をかついで配達してくれる食事で、夜は少しの酒もつき、粗食になれていた屯田兵に、この弁当はなかなか好評だったという(山田勝伴 開拓使最初の屯田兵)。
さらに、市中巡回と災害時の救助出動も屯田兵に課せられた任務であった。屯田事務局を含む開拓使本庁舎の警備にあたるようになるのは十年三月からで、これはまもなく巡査のみに変わるが、十二年一月本庁舎火災を機に本格的な警衛業務が始まった。札幌市中で火災水害など非常事態が発生した時は、開拓使から急報を山鼻兵村の週番所に達し、屯田兵は直ちに開拓使西門内の両側に集結分屯して長官の指揮を受けることに決められ、さらに緊急事を知らせる号砲の日常点検にあたった。
この年から札幌市中の巡回任務につく。一伍(五人)交代で毎日午後四時半開拓使本庁に出勤し、翌朝七時まで市中を巡回、不審者の発見と拘引を行い住民生活の治安確保にあたった。そのほか前述のように演習をかねて鹿の密猟防止に出動したり、熊が住民をおびやかす時は、その駆除にあたったのも屯田兵である。
屯田兵がこうした治安業務を兼ねたため、警察との間に職権をめぐる確執を生じ、十四年十一月両者の武力衝突が発生する。函館新聞(十四年十二月六日及び十日付)によると直接の原因は樺戸集治監脱走囚の処置をめぐる対立にあった。江別市に開設された篠津兵村のラッパ卒を脱走囚が襲い負傷させたことに立腹した屯田兵、囚徒をかかえる集治監、犯罪者検挙を任務とする警察の三者は、脱走囚の死因をめぐり検視と埋葬の権限で対立し、その処置を不満とする山鼻兵村の屯田兵が札幌市中の警察交番所に押しかけ、巡査を追い出し交番所を破壊したため、警察側は二人の屯田兵を拘引留置した。翌日二人の解放を求める山鼻屯田兵が進撃ラッパをならし警察署を取り囲み、それを知った琴似屯田兵も馬や馬車でかけつけた。「実に戦争でも始まることと、家々は門口をかたく鎮して往来も絶へ」たと新聞は報じたが、この記事は東京日日新聞に転載され広い関心を集めた。当日の争いは開拓使幹部の仲裁でひとまずおさまったものの、以後毎年札幌神社や招魂社の祭日に屯田兵と巡査の衝突が繰り返され、屯田兵現役期中その対立は解けなかったという。
写真-8 屯田兵と巡査の衝突を伝える函館新聞(明治14年12月10日付)