白石村では同家中が移住してから間もない明治五年三月に学校と集会所を兼ねた建物を建設し、善俗堂と命名した。六年一月に次の文面の「定」を制定し、師弟の礼、長幼の序など、教育方針の基本とでもいうべき事項を規定した。
一 師弟之礼節ハ元より重大之義厚ク敬礼を尽シ可申候事
一 長者ヲ敬シ幼者を憐み放蕩軽慢之義無之様心懸可申候事
一 読書習字之場所ニ於て苟クモ喧嘩口論等無之様可致事
一 座席之義ハ専ラ学之先後ニ従へ尚又年之長幼をも相弁へ不遜之義無之様心懸可申事
一 火之用心堅く相守諸道具等紛乱無之様可致事
一 右条々於相犯ハ詮議之上屹度取置ニ可相為者也
明治六年酉第一月八日 善俗堂
一 長者ヲ敬シ幼者を憐み放蕩軽慢之義無之様心懸可申候事
一 読書習字之場所ニ於て苟クモ喧嘩口論等無之様可致事
一 座席之義ハ専ラ学之先後ニ従へ尚又年之長幼をも相弁へ不遜之義無之様心懸可申事
一 火之用心堅く相守諸道具等紛乱無之様可致事
一 右条々於相犯ハ詮議之上屹度取置ニ可相為者也
明治六年酉第一月八日 善俗堂
(白石藩移住後継者団体資料 道開)
また七年二月現在の生徒数は白石村二六人、月寒村五人、計三一人で、名からみればほとんどが男子である。
同じ旧片倉家家中の入植した手稲村では、開村間もない五年五月に「手稲村貫属之内男女六童子エ手習学業為相学度趣一統ヨリ願ニ仍テ」(筆算所一件 道図)、私塾時習館を設立した。
設立以降、ほぼ両村を通して注目すべき事象を列記すると、まず六年中両村が、七年には平岸村が、それぞれ本府建設に使用した職夫溜小屋の払下げをうけて、校舎を改築している。また七年にこの三村が教育用書籍の借用を申し出て許可されている。書名をあげると、白石村では「勤善訓蒙」、「輿地誌略」、「内国史略」、「五経素読本」、「理学摘要」、「西洋度量早見」、「数学教授本」、「地学事略」、手稲村は「単語篇」、「手習文」、「日本国尽」、「世界国尽」、「小学読本」、「史略」、「輿地誌略」、「勧善訓蒙」、「智環啓蒙」、「塵劫記」、「大統歌」、「内国史略」、「啓蒙手習文」、「女大学」、「国史略」、「十八史略」等で、平岸村もほぼこの中の書から八書を願い出ている(御検印済 学校 道文九六二)し、『筆算所一件』によれば、手稲村ではさらに多種の書物を願い出ている。これを分類すれば通俗的な往来物、漢籍物、漢文にした和書、翻訳物からなっているといえよう。このほか、著名な話として、七年に松本開拓大判官が、白石・手稲村の教育所に「古之兵皆農」で始まる『兵農一理之書』を送り、また同年この両校には、生徒の賞として『北海道新道道中双六』数葉ずつが開拓使より下付されている。
以上のことからごく概括的にいえば、成立初期において士族移住村の教育は、新開の他村はもとより、篠路村など幕末に成立した村をしのぐものであり、なおまた開拓使もある程度の重視をしつつ教育行政を行った。しかしその状況は長期には続かなかったようである。それはこれらの願書中にも「新集の貧民」、「困弊の村方」と表現されているように、他に比して特に経済的な優位性を持っているわけではなく、さらに他の移民の入り込みも加わったからと思われる。したがって、初期以降については一般の学校に含めて記述する。