一 | 社地ノ儀最前丸(円)山ノ麓見立相成候場所、本庁ヨリ西ニ当リ距離三十六丁、銭函往還ヨリ拾三町、別図欠ノ通ニ有之、今日ニコソ少シ遠キ様相覚候得共、後来盛大御開府候儀ニ候得ハ、不相応ノ地所共不相見候間、右丸山ノ下へ御建立可然ト存候事。 (府県史料) |
すなわち島判官の選定した地を、西村が追認したといえる。さらに同月「札縨開府ニ付会計之調」として建府等費用の見積りが提出され、うち「札縨神社建社建立入費一式」として金三〇〇〇両と米五〇石が計上された。おそらくこの部分も前年に島判官のたてた計画を踏襲したものであろう。しかしこの間、神社をめぐる諸情勢はかなりに変化しており、正院から「何之神社御建立相成哉、且幾社御建相成候哉、壱社ニ候ハヽ莫大過当之御入費ニ可有之」(正院往復 道文三三〇)という符箋を付して差し戻されている。
さらに翌四年四月三十日に東久世開拓長官が「円山御宮地」を検分し、測量方の中田幸吉が測量し、宮地は正式に決定をみた。そして同年五月十四日付太政官布告の、官社以下定額及神官職制等に関する件の別紙中、国幣小社の末尾に「札幌神社 石狩国」の名があり、開拓使には翌六月、次のように達せられた。
なおこの間、三年三月以降、「開拓神社」鎮座にともなう神祇官の官員派遣が問題となったが、五月に見合わせとなった。当時の交通通信事情等からみて、島の宮地選定、三年春着工という動きに照応したものであろう。
また同年四月、開拓大主典相良正勝は建言を行って、北海道一一州に「一ノ宮」を建立し、札幌の神社を全州の総鎮守とすることを主張した。経費は、最初は全国民一日一銭を奉納させて支弁するとしたが、神祇官がこれに難色を示すと、六月の建言で様似・浦河・幌泉・三石各郡を神領としてここから上る税収三万七〇〇〇両余をあてる案を提出した。神祇官は原則としてこの建言を支持したが、実現を見ずに終わった。財政上の理由もあろうが、翌四年一月に社寺領上知令が出される時代相の中では、到底無理な案だったといえる。