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例祭と近傍住民

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 例祭については五年四月十九日付で、来る六月十五日札幌神社御祭典執行の旨開拓使へ達せられたが、実際は種々の都合により七月七日に行われたようである。翌六年は新暦のため七月九日に行われ、開拓使から全道民休業、遠近に従って参拝または遙拝するよう布達された。七年からはふたたび六月十五日を例祭日として今日に至っている。初期例祭の社頭の状況を記したものに、八年元鶴岡藩士堀三義の『北役日誌』があるが、その六月十五日の項には「此日当札幌神社ノ祭礼ノ由ニテ毎戸紅白ノ旗ヲ翻シ、平日ヨリハ甚タ賑カ也(中略)市中ノ諸商及ビ諸官員屯田兵ニ至ル迄尽ク休業ニヨリ(中略)社地ニ到ルニ、正面ニ美麗ナル大鳥居アリ、其左右ニ桜樹百数十本ヲ植へ置キ、花時如何ヲ想像セラル。夫レヨリ社前ニ到ルニ側ラニ浄口水及ビ神酒拝賜ノ仮リ屋アリ。神社ハ長サニ間巾二間ノ小堂ナレド造リハ甚ダ美ヲ尽セリ」とあって、住民が祭典を祝っていることがみてとれる。また同社宮司菊池重賢の『袖中記』(北大図)には、すでに五年六月九日の頃に「一 戸長町用掛伍長共ヨリ角力奉納ニ相成」と、例祭に角力奉納の行われたことを示している。この後も角力・手踊奉納・献灯等の願が出されているが、十一年には直接円山村の一般村民から願が宮司あて提出された。この後も円山村を中心とする近傍農民は、同社に対して産土神的な心情をもって接し、二十年代に至って同村民を中心に崇敬講が結成されることとなる。
 なお『北役日誌』中の桜は、上手稲村福玉仙吉の手によるものであるが、福玉は従来一般に伝えられているような島判官の従者として来札したのではない(市史 第一巻九六九頁参照)。あるいは札幌で島との関係が生じ、島が佐賀の乱で死罪になったのを追悼して八年に願を出して植樹したのかも知れない。