明治二年(一八六九)五月、箱館戦争が終結し、鍋島直正が開拓督務となった翌六月五日、東本願寺は政府に対して「今般蝦夷地御開拓の御主意御下問有之候由奉拝承候(中略)蝦夷地の儀は周回のみ道路有之、山中一切道筋無之(中略)、差当り新道切開(中略)、且有志の輩は所々新開村落移住為致、彼地土人は不及申、諸方より出稼之者も異教に流れ不申様仕、報御国恩度奉存候」(奈良本辰也・百瀬明治 明治維新の東本願寺)と、内陸新道切開、農民移植、教化普及を骨子として伺い出た。ついで本山の坊官、さらに現如法嗣も東上して運動した結果、八月二十八日付で開拓使あて「今般本願寺東門主ヨリ北海道新道切立之儀、且有志之僧徒新開村落へ移住人民教諭為致度段願之通被差許万事其府へ可伺出旨申度候間、此段相達候事」(開拓使公文鈔録)と達せられ、翌二十九日にはこの旨東本願寺側へも達せられた。さらに九月十七日に教化普及に関し、蝦夷地門末の取締方を願い出て許された。
道場建設については、三年一月に一六カ所に取建の義を願い出たが、札幌を含む六カ所に制限された。なお札幌については、弁官あて願書中「石狩州札幌郡御本府許ヘハ、右道場ノ総取締所取建仕度」(開拓使公文録 道文五四八二)と、この位置づけを明確にしている。
同年二月に法主厳如上人が老齢のため現如法嗣を長とする北海道開拓御用掛一行一八〇余人が京都を出発、途中廃仏毀釈の運動に悩まされつつ募金と移住勧誘を行って七月七日函館着、同二十四日に札幌につき、太政官から下付された東本願寺管刹地所を検分した。この土地は現別院のある地に同年五月に一〇〇〇坪下付されたもので、同年八月、さらに一〇〇〇坪が下付された。現如法嗣はこの地に「勅賜東本願寺管刹地所」と記した標木を建て、同日は開拓大主典十文字龍助の役宅に宿泊、翌二十五日札幌を出発した。随員の報告はこの間の状況を「(前略)廿四日辰刻(小樽)の御出坊にて石狩府札幌へ被為成候所、未だ人家も少く本陣とて狭小に付、出張之役宅借請御一泊相成候所、官員之辺大に人気宜敷、種々懇情に御世話申上候て、則御拝領の地所御見分、不取敢樽木取建、猶出張之役中にも示談之上、一棟取建る手筈に御治定にて、今廿五日小樽へ御帰坊之御事に御座候。先は右御場所迄被為成、地所等も御見分相済候ニ付、此段御届且奉伺御機嫌度候(後略)」(厳如上人日誌―前出『明治維新の東本願寺』所引)と記している。宗教施設がないことは開拓の大きな阻害要因であるから、「官員之辺大に人気宜敷」とあるのも当然であろう。現如法嗣はこの後函館別院で新道切開、北海道開拓の方針を協議の上離道した。