明治維新後の北海道におけるアイヌの存在は、前時代において境界画定による、北方における日露外交の危機が去ったことと、それにアイヌにかわる日本人労働者を容易に獲得することが可能となったこと等により、北海道開拓における政治上・経済上・社会上の地位は低下していた。したがって、開拓使のアイヌへの対応も、北海道の開拓を円滑に進行するために行われ、その第一がアイヌに対する封建的束縛、すなわち場所請負制を廃して、一般の人びとと同等の人格を認め、農耕民化させていくことであった。
場所請負制は市史第一巻においても触れたように、搾取的な経営をあえて行い、天然資源を乱費し、労力提供者であるアイヌを虐使したばかりでなく、場所よりあがる利益を独占するために、より有力な資本・労力・経営能力の流入を妨げ、北海道発展の桎梏(しつこく)となりつつあった。そこで開拓使は、明治二年九月二十八日、場所請負人の廃止を布告し、実行に移した。
まず二年十一月、布達を出して「浜中人民並土人取扱ノ義ハ勿論、総テ本府ノ下知ヲ受ケ、漁業モ同様御引上ゲ御直支配」(開拓使布令録)にし、場所請負人の権限を縮少して他の出稼人と同様にし、請負人の名称を廃して漁場持と唱えさせた。そして一旦は用達としてそれまでの村役人的な仕事を続行させ、アイヌへの「介抱」・「撫育」(アイヌへの酷使・収奪とだきあわせの一種の恩典)なども行わせたが、九年九月、漁場持の名称も廃止し、名実ともに元請負人の特権を奪ってしまった。
これによって、請負人が行ってきたアイヌへの「介抱」・「撫育」等も当然開拓使の手に移った。すなわちオムシャ等における下賜品、鰥寡孤独者(かんかこどくしゃ)、老病人幼児等への救済があった。しかし開拓使は、これらの旧慣を漸進的にではあれ廃止して行く方向に出た。開拓使設置当初は、旧慣により官吏の巡回の際の饗応、「役土人」の就任・退任に対する賜物、祝祭日の饗応、オムシャ、出生・死亡の手当、老病者の扶持・施療などが行われていたが、官吏巡回の際の饗応は三年九月に廃止された。実際札幌でのオムシャは、『御金遣払帖』の三年三月二十六日の項に「一 金八両永六拾弐文五分 右ヲムシャニ付官員并手代等迨御酒被下候節之肴代手代長七郎へ渡」とみられることから、実行されたことが確認される。札幌本庁でオムシャ廃止の布達を出したのは五年十二月である。さらに出生・死亡の手当は十一年七月に完全に廃止となり、養育料、老病者の扶持の方は旧例にならい、七歳未満六五歳以上のものが該当したが、老病者の扶持は一部祝寿金と変えた。しかし、それさえも六年四月の賑恤規則の制定により、特別扱いを一切廃止した。さらに施療についても、三年二月分娩後の摂生が行き届かず出生児の夭折が多いので、官医を巡回させて養育方を教諭し、アイヌの施療を続けてきたが、十四年三月代価を支払えないもののみに限定してしまった(布令類聚)。
こうしてアイヌの人びとは、これまでの特権がすべて廃され、代わって一般と同様に賑恤規則のみが適用されることとなった。