このような女子留学生派遣の一方で、黒田次官は、五年開拓使の女学校設立の伺を太政官に提出、同年九月十九日東京芝増上寺の開拓使東京出張所内の開拓使仮学校に女学校を開校した(稟裁録 道文一〇六九七)。
女学校の生徒には、札幌本庁管内から九人、函館支庁管内から六人が選ばれ、東京近在からの生徒と合わせて約五〇人となった。このうち、札幌市中・村出身者は開拓使官吏の娘小林かな、国吉もとの二人のほかに白石村元仙台藩士片倉家従者菅野宜民娘いわよ(一四歳一〇カ月)、同羽部篤行妹つや(一二歳九カ月)の二人がいた(開拓使公文録 道文五七三三)。生徒には支度料として一人三〇円ずつが支給され、旅費はすべて官費で、在学中も一人一〇円ずつが支給され、うち二円を支度料年賦積立金にあてた(富岡へ行った伝習工女が支度料一〇円を一〇年賦で親が返済したのと大いに異なる)。教育には、オランダ人女教師ツワーテルとデロイテルの二人を雇い入れ、「語学筆算地理学史学婦人ノ手業」などヨーロッパの小学生一般の学科を教えることとした。
しかし、開校の翌年四月に「入校証書」が示され、卒業後五年間開拓使に従事することや、北海道在籍者と結婚すること等を義務づける文面のため、生徒は動揺し退学者が相次いだ。半年後、結婚条項は削除されたが、翌年腸チフス流行で学校閉鎖中に札幌移転が発表され、また教師の交代をめぐるトラブルもあって、八年八月札幌の脇本陣(現南一条西三丁目)に移転、札幌女学校と称した。生徒数は三五人であった。
写真-8 女生徒証書のうちより結婚条項削除の伺 明治7年11月27日(伺留 道文957)
しかし、札幌女学校は開府からまだわずかな札幌にとって現実離れの感が強かった。翌九年、開拓大判官松本十郎は、官員と女生徒の醜聞に激怒し、「北海道ハ万事未タ整ハざる高女を設け、卒業生を出スト雖モ之ヲ用ルニ所ナシ(中略)後日ヲ期シ可ナリ」と建言、同年五月に廃校と決まった(北大百年史 農学校資料)。開拓使の女子教育は、開拓に役立つ人材養成を理想に掲げたにもかかわらず、それを実践する場が育成されていなかった。