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明治二十年代の女子教育

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 二十年の道内の小学校児童の就学率のうち、男子が六割弱に対し、女子はまだ二割四分弱という状況で、女子は男子の半分に満たなかった。当時北海道庁教育課長の職にあった三吉笑吾は、女子に技芸職業を教えることを急務と考え、二十年六月札幌女子職業学校を設立した。科目は、読書、算術、家事、裁縫、編物、刺繡、洗濯の七科目が備えられ、そのうち何科目でも、本人の都合の良い時間に受けることができた。年齢は一二歳以上からとなっており、入学金一円、授業料一円であった。同年七月十一日開校式当日の三吉校長の演説によれば、西洋婦人のように、自分も手に職を持ち相応の賃銭を取って夫婦力を合わせて一家を支えていくようにし、たとえ賃銭を取らなくても家の中のことを万事ひととおりのことが出来るように手に技芸を持つことが、この学校の設立目的であった。開校以来入学生徒の申込が相次いだようで、開校三カ月を経た十月では三二人が在籍し、洋服の裁縫が多忙なため教師を東京より一人雇い入れるありさまであった。生徒たちの多くは、官吏や農商家の妻や娘たちであった(北海道毎日新聞)。
 翌二十一年には、各科目ごとに授業料を決め、定員も各三〇人ずつとしたが、人気が高かったのは、洋服、編物、和服、西洋洗濯の順であった。生徒の製作品を販売したり、洗濯の注文をとったり、新たに設けた洋食を官吏の昼食の弁当用に仕出しとするなど、三吉校長の発案はあたった。新築した寄宿舎は満員で、さらに増築しなければならない状況であった。しかし、同年十月火災のため校舎は全焼、一旦は仮教場を設けたが、公立の札幌女子小学校が開校したので同二十二年閉校した。
 一方の札幌女子小学校は、札幌区創成小学校の生徒数が増大したため男女別学として新たに開設された女子のみの小学校であった。その高等科として、二十二年七月十五日開校したのに札幌女学校がある。この女学校は、小学校卒業の女子を教育するのが目的で、学科は修身、読書、作文、習字、英語、数学、地理、歴史、理学、図書(画)、家政、手芸、体操等からなっており、小学校尋常科卒業程度の学力を持たない生徒も一四歳以上ならば入学できた(同前)。
 札幌女学校開校式当日、道庁長官永山武四郎はその祝辞で、女子教育は貞淑優美なるを要し、単に才能学芸に馳するは好ましからぬとの旨趣を述べた。ここにも時代の制約があらわれている。しかし、女子教育に寄せる人びとの思いは熱く、札幌女学校の維持を有志者の寄付をもってあてることが当時の『北海道毎日新聞』に報じられると、官吏、政財界の主だった人びとより続々と寄付が寄せられた。たまたま同紙に、「賤業世に恥ずべき彼の芸娼妓も尚ほ且つ公共の為めに資を投しておしまざる者あり」といった記事が掲載されると、「己れも遊廓近傍に住む者、感激堪えざりし」と寄付を寄せる者もいた。
 二十四年四月末現在、公立女子小学校在籍者は四三三人、札幌女学校在籍者は一〇九人であった。ところが、その後入学を希望する者が相次いだため校舎が狭隘をきたし、同年十二月ついに札幌女学校は閉校に追いやられた。
 札幌女学校と併行して存在した私立の女学校に、北海女学校がある。二十三年十二月の開校で、二十四年七月校舎を大通東三丁目に新築移転した。ここは、尋常科、専科、高等科からなり、教科も唱歌等の時間を減らし、もっぱら裁縫、礼式等の時間にあて、高等科においても歴史、画学、理科、唱歌の時間を減じて裁縫、習字、作文等にあてるといった徹底した「実地有用の技芸」教育であった。校主は北村瑛吉であった。二十六年同校は、裁縫その他実業科の教員を充実させ、高等科における理科、歴史、画学等の時間を減らし、その時間を裁縫科、家事経済等にあてることをさらに強化している。このように二十年代の女子教育は、明治初年の男女の別なく人材養成を教育の目的に据えたのと異なって、家事・裁縫といった技芸中心の良妻賢母教育へと向かいつつあった。
 そのようななかにあって、アメリカ人スミス創立のミッション系の女学校は異色であった。同校は二十年一月十五日北海道尋常師範学校赴任中のS・C・スミスが師範学校官舎(北一条西六丁目)の旧厩舎を改造して教室にあて、編物、料理、英語を七人の女生徒に教えたのに始まる。同年道庁から新築校舎が貸与され、八月二十五日スミス女学校の開業式を挙行した。生徒数四六人、初代校長はスミスであった。スミスは二十二年三月北海道尋常師範学校の英語教師任期満了に伴いようやく女学校に専念できるようになり、同年九月和漢普通学、外国語学、調理裁縫学の予科、本科および幼稚園を付設する私立学校として正式に認可された。校主は大島正健、校長は田中穎子であった。二十四年、高等普通科を認定された。当時の高等女学校は、認定の後で発令された改正中学校令では、中学校の中でも下級の尋常中学校の位置におかれ、しかも高等普通教育を授け、「女子ニ須要ナル技芸専修科ヲ設クルコトヲ得」と決められていた。二十五年の『女学雑誌』に掲載されたスミス女学校は、「徳性を涵養し、善良なる妻女となるべきものを養ふを以て目的とす」と紹介されている。この目的は、高等普通科の認定を得るために掲げたらしいが、スミスの女子教育の主な目的であるクリスチャンホームを形成する良き妻や母の育成といった意図をも内包していたといえる。

写真-9 S・C・スミス(北星学園蔵)

 やがて、二十七年道庁から無償貸与されていた校舎等の期限が切れたのを契機に、同年十月旧北海英語学校の校地・校舎(北四条西一丁目)を買収・移転し、校名も北星女学校と改め、今日の基礎を確立した。それとともに、キリスト教教育を柱にしつつも日本学コースをも採用し、「日本婦人的教育」を加味した教育へと発展させていった。しかし三十二年には、私立学校令公布による私学に対する監督強化、同時発令の文部省訓令による宗教教育の規制も加えられていった(北星学園百年史 通史篇)。その一方で、同年には良妻賢母教育を柱とした高等女学校令が公布され、いよいよ近代日本の女子教育の基礎が固められていった。