当時札幌の商取引において函館との関係は少なくはなかったが、米穀ほか荒物雑貨類など北越地方の生産地と直取引はなく、十中八、九は小樽商人の手を経て仕入れていた。これは小樽が本州との取引において地の利を占めていたことによるが、一方札幌の商人は二十四年頃までは、米穀その他の荒物を小樽商人から買取り、これを札幌区内ばかりでなく、石狩地方の市場に売込み、かつ石狩地方の農産物を買占め、小樽商人と石狩農民との間に立って二重の利益を占め、札幌は石狩平野の中央市場の観を呈していた。
しかし海運において地の利を占める小樽商人は俗に「島行」と称して道北沿岸地方と手広く取引を行い、運賃及び物価の割引などで多大の利益を得、二十二年には小樽港は特別輸出港の勅令を得て新たに取引所を設け、一時は全国屈指の取引をして市況を賑わせていた。そのうえ室蘭及び夕張鉄道の敷設により、小樽商人は札幌商人と競争して石狩奥地へ入り込むようになった。
この時期二十四年九月、札幌の商業人有志が後年の商工会議所の前身ともなる商業倶楽府を結成する。目的は業界人相互の親睦をはかり、農工事業の振起につとめ、札幌の商業の発達に寄与することとしており、府長谷七太郎、副府長山崎孝太郎、幹事は宇野孝吉、小塩武吉、そのほか常議員一五人で、その中に今井藤七、新田織之助らの名が見える(北海道通覧)。
ところで二十五年五月、札幌区内商業の中心部である南一、二、三条の商店街から大通以北の官庁街に至る市街の五分の一に当たる八八七戸が焼失する大火で、札幌の商人はさらに大きな痛手をうけ、札幌の商況は一変することになった。
この年八月中島遊園地で北海道物産共進会を催す計画があり、そのため区民は協賛会を設け、全国から貴顕豪商の招待が計画され、区民は急ぎ八月まで数百戸に及ぶ家屋の新築をみたが、共進会は予期のごとく効果なく、区民の資金は多く固定し商況は伸びず、しかも北海道庁の経費は節減されてその政策は消極的になり、土木請負事業も減少した。そのため夕張及び室蘭鉄道路線が竣工しても土方工夫の札幌へ入り込む者も少なく、区民もまた区内を去り石狩原野へ移住するものもあって、二十六年には全区一時一〇〇〇余戸の空家をみたとある。「明治六、七年市民大に逃走せし時代と開拓使廃止せられ暗夜灯火を失ひたる明治一五、六年の不景気時代と併称して、札幌第三の暗黒時代とは称えらる」と『札幌沿革史』は記載する。
二十七年、日清戦争が起こる気運によって本州と北海道を結ぶ定期船は御用船となり、そのため東京、大阪、敦賀等よりの貨物の運送はほとんど絶え、北海道と本州を結ぶ航路はただ函館、青森間及び函館、室蘭間の小蒸気船の往復だけとなり、運賃の高騰を招来した。
従来小樽港より大阪までの定額運賃は一〇〇石九一円で、郵船会社はこれより一〇パーセントを減じ、社外船は二五パーセント減で物資を搭載するのを常例とし、不況期の二十六年にはその五〇パーセント引きで、大阪まで粕一〇〇石三〇円、東京まで二四、五円で輸送した。しかし、二十七年春頃より船舶の徴用によって船賃は高騰し、一割増より三割増でも相談にならず、小樽より大阪まで粕一〇〇石で運賃三〇円が一五〇円に、東京までの二四、五円が一二〇円となった。そのため輸入品、特に米穀などが高騰し、六月上旬に越後米一石につき八円三〇銭前後のものが下旬には八円八〇銭にもなり、他の商品は移出入が停滞し商品に欠乏を生じて来た。その後郵船会社は資金を投じて外国汽船を購入、あるいは雇入をして運賃を定額の一割増で輸送に当たったが、八月清国への開戦宣言で、これら海外から購入の汽船も徴用され、船舶の欠乏で十月より翌年三月の停戦までは運賃も最高度に達し、そのため一、二割から五割に及ぶ物価の上昇をみたが、呉服太物洋物をはじめ日常の需要品に至るまで前年に比して三割増以上の売高になった。
二十八年四月、日清戦争は終結して講和条約が調印され、御用船も漸次解除されて船舶の北海道への往来が増加して運賃も下がり、十月頃より平時の状況に戻った。また旭川への官設上川鉄道の敷設、排水運河工事の起工、第七師団の新設等、日清戦争後諸般の事業が活気を帯び、いずれも前年に比し三割以上の売高があり、諸物価はほとんど一、二割以上高く、紙、蝋燭などは五割以上に、「久しく旧慣を改めず」と呼ばれた豆腐商も三割以上の値上げをする状況にあった。このため諸職工の賃銭もまた値上げを求められ、三十、三十一年の市況は沈静化の姿を現わし、三十四年の春には中央金融市場の恐慌と共に本道もその影響をうけるようになった。