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兵役

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 両兵村とも招募は十八年の屯田兵条例によったので服役期間は「予メ之ヲ定メス」とされた。しかし二十三年と二十七年の条例改正により、次の通り変更になった。
新琴似兵村二十年入地者〉 兵村内では「古兵」とか「二十年組」と呼ばれる。二十三年改正第四条により「服役期限ハ二十箇年ニシテ、現役三箇年、予備役四箇年、後備役十三箇年」となり、第八条二項の適用を受けるので「明治二十四年ヨリ四箇年間予備役ニ服セシメ、満期後召募ノ年ヨリ起算シ二十年ニ満ツル迄後備役」とされ、その起算は編入年の四月一日となった。これによれば、入地の日(二十年五月二十日)から二十四年三月三十一日までが現役、翌四月一日から二十八年三月三十一日まで予備役、翌日から後備役となるはずだったが、予備役中に日清戦争出兵となったので、後備役編入は琴似・山鼻兵村同様二十八年六月二十六日だったと思われる。後備役満了は四十年三月三十一日の予定だったが、条例廃止(三十七年九月八日)によって屯田兵としての兵役義務はなくなった。とはいえ、その一カ月ほど前に日露戦争の動員令が出ていたので最後の厳しい兵役が待っていた。
新琴似兵村二十一年入地者〉 兵村内では「新兵」とか「二十一年組」と呼ばれる。二十三年改正第四条に該当するのは二十年入地者と同じだが、第八条は三項に該当し「明治二十五年ヨリ四箇年間予備役ニ服セシメ、満期後召集ノ年ヨリ起算シ二十年ニ満ツル迄後備役」とされたので、現役は入地の日(二十一年五月二十六日)から二十五年三月三十一日まで、予備役が翌日から二十九年三月三十一日まで、その翌日から後備役となり、その満了は四十一年三月三十一日の予定だった。
篠路兵村入地者〉 令規改正の境目に該当するため複雑な変更が重なった。二十三年改正条例を全面適用するので現役三年、予備役四年、後備役一三年である。但し第九条のうち「明治二十二年及明治二十三年ニ於テ召募シタル者ノ現役年期ハ屯田兵編入ノ当日ヨリ起算シ、予備役後備役年期ハ前後満日ノ翌日ヨリ起算ス」る項が適用される。したがって現役は入地の日(二十二年七月十五日)から二十五年七月十四日まで、予備役はその翌日から二十九年七月十四日までのはずだったが、二十七年改正でこの第九条二項が削除され、すべて四月一日起算に統一されたので、二十九年三月三十一日に繰り上がり、四月一日後備役編入となる。その満了は四十三年三月三十一日の予定だった。
 なお『新琴似兵村史』に後備役編入、兵器返納式の模様を次のように伝えている。
 明治二十八年四月一日、大隊練兵場に於て屯田歩兵第一大隊の解隊式いと壮厳に挙行され、同月同日新琴似屯田兵村在住の兵員全部後備役編入、兵籍を札幌聯隊区司令部に移し、是より爾後全く普通町村となり、一般人民の伍伴に加はった。昨日までは晨に吾家を出で軍務に服し、夕に家に帰りて家族と共に鍬を把りて、等しく一家の福利増進を図かるといった状態で、一見営内居住の兵士に比較する時は何等苦痛を感ぜざるかの如くに思はれるが、実際に於てはその一挙一動を挙げて厳格なる軍規に束縛せられるので、全くの自由人に比し可成りの離りのあるは無理からぬことであった。それが今や義務年限を終へ、自由の村に自由の身となると云ふことは、如何ばかり兵員の心持を暢々とさせたことであろう。

 この記事によると、新琴似兵員全員が同時に予備役を終え後備役に入ったことになり、それが日清戦争中の二十八年四月一日としているが、前述の服役期間と合わない。今後の調査を待ちたいが、予備役を終えるということには、こうした大きな意味があった。なお、二十三年条例で後備役満了後、さらに一〇年の補充兵役を設けているが、該当したのは琴似、山鼻兵員で、後期兵村は条例廃止により適用されていない。出兵は予備役中に日清戦争があり、東京に集結したが戦地に赴かぬうちに終戦となり帰村、後備役中には日露戦争があり、実戦に参加して多くの犠牲者を出した。

写真-1 明治24年の屯田兵演習(新琴似百年史より)