琴似兵村の公有地がこのように早期に処分され始めたのは、先発兵村の苦しい試行とみられる。兵村は行政上の地方公共団体ではないから、その所有地(公有地)を不動産登記すると課税対象になりそうだという噂、その税金をどのようにして払うべきか、未開地のまま所有しているとそっくり北海道庁に管轄一替されてしまいそうだ、解隊後いずれ一般行政村に移行せざるを得ないから、その時は公有地が村財産に吸収されてしまい、旧屯田兵と子孫の手に残らないのではないか、等々の不安が強く、不動産を換金して運用すべしとの意見になり、琴似兵村では三十五~三十七年にかけて公有地の三分の一ほどを売却処分にした。ここは住区画に近接する利便地で地価も高く、現JR琴似駅、西区役所一帯の市街化に重要な役割を果たし、収益は共有金、戦時維持費として預金運用された。残り三分の二(約二〇〇万坪)は以後も所有し入殖貸付した土地もあるが、随時売却した金や残りの土地を公共事業に寄付することが多く、学校の新増築や運営の重要な財源となったほか、防火水路の設置、神社造営に充てられ、昭和十八年一切の公有地処分を終えた。
山鼻兵村でも三十五~三十八年にかけてかなりの公有地を売却処分にした。土地を購入したのは兵村内の住民が大部分であるが、自ら耕作する人は少なく、早い時期にさらに転売された土地が目立つ。収益は有価証券に換えて運用し豊富な共有金を誇ったが、投資した産業資金による民間企業の育成は思うように進まなかった。残りの土地は道路、学校、農業改良等の公益事業に役立て、現豊平区羊ヶ丘の農業試験場も山鼻公有地から誕生した。
新琴似兵村で住区画周辺の公有地処分は早かったが、遠方の土地は長く部有財産として維持され、それがかえって琴似地区との対立の火種になったりした。屯田兵と家族が転出し新しい移住者が入ると、公有地の活用を屯田兵のためだけでなく新住民を含めた地域振興に資する方策を模索し、小学校と教員住宅の新改築、公会堂、巡査駐在所、村医住宅、神社等の増改修、道路開削等に投じた。中でも新琴似と札幌市街を結ぶ西五丁目通の建設は懸案の大工事で、その用地の大半は公有地の提供によったし、八軒に新築することになった琴似村役場敷地の買収費には新琴似公有地を処分した金を充てたのである。
篠路兵村公有地は住区画一帯を大稲作地帯に造成するため投じたと言ってよい。公有地を売却処分し、その資金の大半を大正二年創設の土功組合に寄付あるいは貸付運用することにより、泥炭の低生産農地をして水田に転換、札幌北部に純米作農村を出現させた。この資金確保は公有地によって可能となり、他方新琴似地区と水利権を禅譲的に解決して成功に導いたが、離村の進んだ後の水田化だったので、その恩恵を受けたのは新移住者に多く、屯田兵と子孫に少ない結果になった。ほかに篠路公有地が道路、学校、公会堂、競馬場、青年会運営等に関わったのは他兵村と同様である。