また二十二年入植の篠路屯田兵村は、翌二十三年に公立長永簡易小学校を設置したが、翌二十四年に一挙に兵村管理の私立海南尋常高等小学校となった。二十六年には再び公立に戻り、四年制の尋常小学校となり、二十九年に再び高等科をおいた。二十年四月の小学簡易科の指定は、ところによってはかなりの不満を呼び、たとえば官員の多い市来知村でも公立を私立に変更して正規の小学校とした例がみられるが、屯田兵村の場合、たとえば江別屯田兵村の公立江別西小学校が二十三年十一月に私立に移行した理由を「兵村経営ということは私立であることが確認されたため」(江別第二小学校九〇年記念誌)としており、新琴似・篠路兵村もあるいは同様の理由からではないかと思われる。
つぎに平岸小学校の場合は、この時期としては珍しくかなりの史料があるので、事例として概要を記述したい。同校は二十三年二月に、平岸村総代人二人の連署をもって「小学校設置願」を戸長あて提出したが、その中で設置の理由を、学齢児童はこれまで豊平小学校に通学させてきたが、年々移住者も増加の傾向にあり、また「楓山及真駒内等ヨリ豊平迄ハ里程凡貳里内外ニ渉リ、大風雪等ノ際ハ迚モ通学為致兼」(豊平町史資料一一 教育)と、児童の増加と通学距離の問題としている。戸長経由のこの伺いは、同年三月十五日付で道庁の認可をうけ、四月一日にとりあえず民家を仮校舎として開校式を挙げた。
学校新築に関しては同年九月早々から総代人中目文平の日記にみえる。建築費については、十月一日付で戸長から道庁あて七〇円余の補助申請がされたが、道庁は、同補助は災害等の場合などに限って行うものであって、この場合は聞き届け難いと回答している。当時の学校新築補助に関する道庁の基本方針がみてとれる。しかし『中目文平日記』十一月五日の項中「学校新築補助金七拾円下付」とあって、結局は補助金を得たようである。規模は二四坪であった。
以上のようにして開拓の進展による人口増加、就学状況の変化をふまえて小学校およびその分校・分教場が多く設置されたが、三十二年春の状況として、道庁視学の調査の結果、小学校新設の必要な個所として山鼻戸長役場内八垂別、平岸村石山・簾舞・真駒内、月寒村厚別、広島村下野幌、札幌村烈々布・苅木(ママ)・中野農場が挙げられている(北海道教育週報 二二二号)。現市域内の各村も開拓が進み、多くの集落が成立してきたことに照応した結果であろう。
なお、個別学校変遷の概略について、前編の時期をも含めて示せば表4のとおりである。
表-4 札幌関係小学校発生系統図(明治32年まで)その①
表-4 札幌関係小学校発生系統図(明治32年まで)その②
1.山崎長吉「明治期の学校教育の実態と問題」『札幌の歴史』第18号による。 2.〔略称〕尋小-尋常小学校、尋高小-尋常高等小学校、分教-分教場、分-分校、 簡教-簡易教育所、簡小-簡易科小学校、北師附小-北海道師範附属小学校、 (私)-私立。 3.小学校に類する各種学校、その他に類する各種学校のうち、準拠不明の学校(私立)は省略した。 |