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札幌基督教会の発展

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 大島正健が牧師按手礼を受けた前年の明治二十年から二十五年まで、札幌基督教会は、毎年二〇人から四〇人以上の受洗者があり、なかでも二十二年は受洗者が四二人を数えた。札幌唯一のプロテスタント教会であったから、諸教派の教会員の転入会も多くみられた。二十一年から二十三、四年にかけて、同教会は牧師に大島正健、伝道師に竹内(馬場)種太郎を得て、最も活発な時期を迎えた。この時期にはまた、宮部金吾広井勇、新渡戸稲造らがアメリカやドイツ留学から戻り、札幌農学校の教授となり、同教会の在住会員・客員となった。美以教会(みいきょうかい)に残った佐藤昌介(札幌農学校教授)、長老派のS・C・スミス(北海道師範学校教師)も客員として札幌基督教会の活動に参加していた。農学校・師範学校・スミス女学校の生徒が集会に出席するようになって、婦人会とともに青年会の活動も盛んになった。
 二十二年には、同教会の日曜礼拝の出席者が百四、五十人、水曜日の祈禱会の出席が三、四十人に及んだ。同教会の伝道範囲も広く、札幌区内に限らなかった。集治監のあった樺戸郡市来知の空知教会をはじめ、月形・当別などに伝道の手が及んでいた。もっとも内村鑑三らが交代で説教に当たっていた頃から、札幌基督教会は青年たちの熱心な活動によって成長した反面、「玉に疵とも云べき事は信徒互に学問上高尚なる議論のみ兎に角流行し」(七一雑報 七―四〇 明治十五年)たとの批評がキリスト教界内からもあった。この時期の初め二十一年頃もそのことが教会内で自覚されたとみえて、同年十月一日から六日間連続の「基督教連夜説教」集会が計画された。日曜礼拝など通常の集会では、学生が出席者の半ばを占めていたため、その説くところも「言(げん)妙(めう)に入り詰屈(きつくつ)に陥り、始めて教義を聴くものには望洋(ぼうやう)の嘆(たん)なきにあらねば」(北海道毎日新聞 二十一年九月三十日付)という状況があった。連夜説教集会の開催は、キリスト教を多くの市民に受け容れられるように平易に語ろうとする意図であった。
 二十三年には、一月に連夜四回基督教演説会を催した。来聴者が二百二、三十人から二百五、六十人に及び、二月の青年会奨励演説会には来会者が三百余人に達した。二十三年二月現在の教会員は総計二〇九人、うち札幌在住会員一五九人で、ほかに客員(他教派の教会員)六九人を数えた。在札会員と客員を合わせた二二八人が同教会の実勢力であった(札幌基督教会々員姓名録)。この年は南三条西一丁目に講義所を設け、市中伝道を再開し、また日曜学校の分校として豊平日曜学校を設けた。会員中の老婦人たちも会を組織した。