三十二年段階における
札幌区内の私立病院と開業医は、同年刊行の『
札幌案内』によれば表23のとおりであった。
表-23 札幌区内私立病院及び開業医(明治三十二年) |
【私立病院】 |
病院名 | 場所 | 設立 | 概 要 |
北辰病院 | 北一西四 | 26・11 | 医学士関場不二彦、札幌病院院長を辞し、大通西四丁目に関場医院を設立。二十七年七月北海病院と改称。三十一年関場外遊中北辰病院と改称し、医学士竹村が院長となる。三十二年一月関場再び院長となる。外科。 |
土屋病院 | 南五西一 | 24・5 | 院長土屋轍。はじめ南二条西三丁目に開院したが、二十五年火災のため移転す。 |
明治病院 | 南四西五 | 31・1 | 院長尾形碧。医員福原志雄。 |
島田病院 | 南一東一 | 31・5 | 院長大学別科卒業生島田操。 |
回明堂眼科病院 | 南二西三 | 29・10 | 院長真下喜久治。 |
俣野眼科病院 | 南二西二 | 31・6 | 院長俣野大治郎。 |
【開業医】 | |
氏名 | 場所 | |
岩田七郎 | 南四東三-二 | |
飯塚徹 | 南一西三-一 | *1 |
野崎三郎 | 南二西六-一四 | |
横山篤次郎 | 南二西二-一二 | *2 |
根守秀逸 | 南三西四-一〇 | |
正見伊三郎 | 北一西七-三 | |
後藤顕美 | 南一西三-一 | |
安部梧楼 | 南四東一-三 | |
菊地晩節 | 南二西六-八 | |
三角恂 | 北三西一二-一二 | *3 |
平尾房吉 | 北一西七-一 | |
池田彰 | 南三西三-三 | |
浜田耕助 | 南四西三-八 | *4 |
奥田良平 | 南三西二-一三 | |
倉次謙 | 北一東一-六 | |
荒井保吉 | 北二東二-九 | |
佐藤晴喜 | 大通東一-一 | |
木村大二 | 大通東一-二 | |
三田村多仲 | 南四西一-一〇 | |
渋谷安之進 | 南三西五-二一 | |
札幌区には、二十三年一月結成の
札幌区開業医同盟(二十六年
札幌区開業医組合と改称)があり、当時二一人が加盟していたが、二十八年三月道庁長官
北垣国道の医会設立の告諭により公立病院の医師を含めた
札幌医会に発展し、二十九年には会員は五〇人となった。しかし、区内の人口と開業医の割合は、当時の人口からすると一八七六人強に医師一人にあたり、内務省統計の全国割合の二〇〇〇人に一人と比較して充分とはいえないが、一応全国を上回ってはいた。
しかしその一方、一旦病気にかかっても近代医学の恩恵に浴せる人びとはまだ良い方で、病院から遠く離れた交通不便な村に住む人びとは、治療を受けることなく命を落とす場合も少なくなかった。村の場合、二十年代に入って移民の増加にともないようやく開業医の設置をみたが、
豊平村一人、
白石・
上白石村二人、札幌村外四カ村一人という状況に過ぎなかった。このため各地で村医設置運動がおこり、三十一年段階では札幌村外四カ村、
上手稲村外三カ村、
月寒村外二カ村に村医が設置された。また
白石・
上白石村においても、人口増加にともない開業医が不足し急病患者に対応できないという理由から、三十一年村医設置がようやく認可された。この場合、二十八年の道庁令第三一号「区町村立病院及町村医俸給補助規則」により、村医の俸給補助を受けられるようになっていた。また、山鼻
屯田兵村においては、二十九年兵村会議で私立病院設立を決議した。