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北海道同志俱楽部

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 札幌の政界を形づくる遠因の一つに、明治二十四年の板垣退助一行の来札がある(市史 第二巻六三七、九四七頁)。この時区民は、彼を自由党総理としてよりも「当代の名士」として迎えたことにみられるように、「札幌の識者は皆、本道は拓地植民の地にして専心実業に務むべく、政党は本道の人心を擾乱して其秩序を破壊する者なりとなし」(札幌区史 九四〇頁)、「区民は多く政党を排斥し、政党員の来るあれば、政党員として之を歓迎せずして、個人の資格に於ける名士として歓迎するを習慣と為したり」(同前 九七五頁)という。こうした背景から、二十四年設立の札幌商業俱楽部は政派的動きをみせながらも、社交組織の枠を出ることはできなかった。区民がこれまでに政党に所属することはほとんどなかったようで、道庁派特別制派の二派に分かれて展開された自治権運動も、特定の政党にのみ頼ることはなく、運動が政派を形づくるまでに至らなかった。とはいえ中央政党との関わり方は、函館の人々に比べはるかに改進党に接近していたことは否定できない。三十年区制の公布、三十一年憲政党内閣の成立を迎え、札幌でも集会及び政社法にもとづく団体の組織化が論じられるが、三十二年札幌区会設立の時点でなお「政党員は断じて区会に入るべからずとの意見」(最近之札幌 三一頁)が根強かった。
 こうした状況下で結成されたのが、北海道同志俱楽部である。その発起人として中西六三郎村田不二三田中清一等札幌の住民とともに、東武西村皓平土居勝郎等区外各地の大地主層が名を列ねるが、実は発起人名に出ていない浅羽靖、谷七太郎がこの俱楽部の首称者であった。三十一年八月十日偕楽園で発起会を開き、十一月四日設立大会を料亭松月で催した。この間、札幌で政談演説会を開き、石狩空知上川地方に遊説員を派遣したり、衆貴両院議員を豊平館に招待して談話会を催すなどして、俱楽部の趣旨普及と会員拡大につとめた。設立趣意書に「道民をして憲政の徳沢に浴せしめざるもの何の故ぞや(中略)本道人士たるもの須らく発憤蹶起、自恃自治の心を喊起し、広く有為の同志を糾合し、調査企画、以て大に拓殖の鴻図に資する処なかるべけんや」とあることから、政社か調査団体かで大論議になった。結局非政社組織に決まり、警察署の集会及び政社法抵触の指示によって趣意書は全文取消しになったが、会則第三条「会員相互の親交を謀り、智識を交換し及本道拓殖の進捗を企図する」との目的は変わらなかった。
 俱楽部は道是確立のため七つの活動方針を公表し(写真4)、機関紙として東武を社主とする『北海時事』を十一月一日に創刊、札幌を本部に定め、現中央区北四条西一丁目に事務所を置いた。その運営は、札幌の住民よりも区外の大地主層の勢力が強くてまとまりを欠き、浅羽の土地や金融にかかる言動が不信を招き、非政社の限界もあって永続は困難であり、会員の一部は一年を経ずして再結成の憲政党札幌支部に合流していった。

写真-4 北海道同志俱楽部の施策広告(道毎日 明31.8.24)