こうした状況下で結成されたのが、北海道同志俱楽部である。その発起人として中西六三郎、村田不二三、田中清一等札幌の住民とともに、東武、西村皓平、土居勝郎等区外各地の大地主層が名を列ねるが、実は発起人名に出ていない浅羽靖、谷七太郎がこの俱楽部の首称者であった。三十一年八月十日偕楽園で発起会を開き、十一月四日設立大会を料亭松月で催した。この間、札幌で政談演説会を開き、石狩空知上川地方に遊説員を派遣したり、衆貴両院議員を豊平館に招待して談話会を催すなどして、俱楽部の趣旨普及と会員拡大につとめた。設立趣意書に「道民をして憲政の徳沢に浴せしめざるもの何の故ぞや(中略)本道人士たるもの須らく発憤蹶起、自恃自治の心を喊起し、広く有為の同志を糾合し、調査企画、以て大に拓殖の鴻図に資する処なかるべけんや」とあることから、政社か調査団体かで大論議になった。結局非政社組織に決まり、警察署の集会及び政社法抵触の指示によって趣意書は全文取消しになったが、会則第三条「会員相互の親交を謀り、智識を交換し及本道拓殖の進捗を企図する」との目的は変わらなかった。
俱楽部は道是確立のため七つの活動方針を公表し(写真4)、機関紙として東武を社主とする『北海時事』を十一月一日に創刊、札幌を本部に定め、現中央区北四条西一丁目に事務所を置いた。その運営は、札幌の住民よりも区外の大地主層の勢力が強くてまとまりを欠き、浅羽の土地や金融にかかる言動が不信を招き、非政社の限界もあって永続は困難であり、会員の一部は一年を経ずして再結成の憲政党札幌支部に合流していった。
写真-4 北海道同志俱楽部の施策広告(道毎日 明31.8.24)