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新支部

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 初めて成立した政党内閣はまことに脆かった。旧自由党系と旧進歩党系の凝りが解けず、隈板内閣は内訌のため瓦解し、憲政党もまた分裂した。旧自由党系はそのまま党名を称して新しい憲政党となり(明31・10・29)、旧進歩党系は憲政本党と名乗った(明31・11・3)。まぎらわしい党名をきらって一般には旧称である自由党進歩党と呼びならわす。このほか政府擁護の議員交渉組織として、国民協会が事実上の政党として存在するが、のち帝国党と名を改めた。
 憲政党札幌支部では、この報に接して十一月一日急遽党員協議会を開き対応を協議した。情報が少なく本当に解党したのかどうか疑う者、そのようなことは認められないとする者、本部が解党届を出した上は支部も廃止の届出をすべきだという者など、意見が続出したが、この時点で札幌支部は「沈重の態度をとり、軽々しく去就を決せず、後に確報の到るを待って処すること。而して支部存廃に関する届出は夫れ迄延期する」(道毎日 明31・11・3)ことになった。しかし警察署の命により支部解散届を出さざるを得ず、十一月四日をもって札幌支部を廃止し、直ちに新しい憲政党の札幌支部を組織し、翌五日付で「今般旧憲政党解散に付、支部を解き、本日を以て新に憲政党支部を設置致候。此段謹告候也。但支部規則は従前のまゝ襲用致候」と広告した。新旧支部の名称は同じでも「之れ自由党一派の団体に過ぎずして、従来の憲政党とは全く別物」(道毎日 明31・11・5)ということになる。
 新しい憲政党札幌支部の大会は三十二年七月二十三日大黒座で行われた。本部から星亨、井上角五郎等が出席し、五五〇人ほどが参会したというが、札幌の住民はあまり多くなく、区外の参会者が多数を占め、旧札幌支部の自由党系の人たちと北海道同志俱楽部に所属していた大地主層が中心メンバーである。同志俱楽部の陰の人といわれた浅羽靖を支部長に選び、大河原文蔵山崎孝太郎西村皓平花村三千之助土居勝郎を幹事とし、札幌の住民では中西六三郎村上祐高瀬和三郎等が常議員に名を連ねたが、党員の出入はその後頻繁にみられた。
 支部の主張は大会決議で確認したが、それによると、一、北海道代議士選出、二、北海道地方制度改良、三、官設殖民鉄道敷設期限短縮、四、函樽鉄道速成、五、炭砿鉄道幹線国有、六、北海道沿海航路拡張、七、道路橋梁排水其他事業費継続支出、八、治水、九、港湾修築、一〇、水害救済費特別処分、一一、拓殖銀行速成、一二、漁業銀行法制定、一三、水産税廃止、一四、教育制度の改善及び拡張、である。大会のあと発会式、政談演説会が行われ、二十四日夜には、谷七太郎が発起総代となって星亨の歓迎会を豊平館で開き、三〇〇人ほどが参会したという。こうして新しい支部は札幌区会議員の初選挙に向けて予選の組織化を急ぐことになり、札幌実業協会と議席を争う試練に臨んだ。
 初区会議員選挙の結果は別項で触れたが(五四頁)、本部と支部が必ずしも一体的な動きをせず、支部の要望を本部が全面的に受け入れたわけではない。一四項目の支部方針にしても、星は「大体に於て余の賛成する所」と発言しその真意を問われたし、選挙支援では支部に不満を生じさせた。三十二年十一月、本部から特派された神鞭知常代議士が札幌に来て、ここでは党員募集党勢拡張の働きかけをしないと発言した。本部と支部間で、国政への運動は本部に申し出て了解を得たのち行う内約があったにもかかわらず、支部内の統制がとれず個々の交渉で内紛を引き起こし、「憲政党は札幌の区制上より放逐せられたり」(道毎日 明32・12・19)と言う人もいたが、のち立憲政友会支部へと統合されていく。