立憲政友会は結党後四〇年にわたり、代表的な体制政党として国政上大きな位置を占めたが、分合の絶え間ない政党の変遷にあって、区制期の札幌政界はほぼ政友会が大勢を制し続けたとみてよい。とはいえ、一党に結集し政争のない安定した状況ばかりだったわけでない。政友会札幌支部内はもとより、党員外の支持者の間には常に人脈地縁にからまる政派が存在し、選挙において同一党内で対立激戦を展開することは珍しくなかった。
区会発足時から存在したのが対馬派と森派で、初代区長や衆議院議員の座を争った。対馬嘉三郎は実業協会を支持母体に初代区長に就任したが、森源三は中立といいながらも憲政党寄りで、札幌で最初の衆議の座を対馬と争い、当選した。衆議や道会議員選挙で表面化するこうした政派の主なものとして、谷七太郎派、浅羽靖派、助川貞次郎派、中西六三郎派等があった。その対立は当然区会に持ち込まれ、調停策が区長の重要な任務であった。
浅羽は政友会を脱会し中央俱楽部(のちの立憲同志会──憲政会)に政籍を置き、旧進歩党系の憲政本党も札幌支部の創設を計画して事務所を開いたが、四十三年これを中核とする立憲国民党の成立により、その札幌支部となった。これら札幌の政党政派の関心事は区政と北海道拓殖問題に集中し、国政一般を議論することは少なかったが、日露戦争後の講話条約に反対し大演説会を札幌座で開いたし、大正二年には憲政擁護の大規模な運動を展開した。いずれも全国的な動きに呼応しており、札幌・北海道の特殊問題にとどまらず、国政の課題に結びつくようになっていった。たとえば憲政擁護道民大会、いわゆる第一次護憲運動では桂内閣の退陣要求を決議し、本道議員は内閣不信任を表明すること、議会解散時にはその議員の再選に努めること、全国憲政擁護大会に代表を送ることが決まった。これを実行するために道会議員が大正、革新の二俱楽部に分かれて対抗することは不得策として、両派解散し協調していく申し合わせも成り立った。
その翌三年、札幌区における衆議補欠選挙は、結成まもない立憲同志会の松田学と立憲政友会中西六三郎の争いとなり、実業同盟会が支持にまわった松田が当選するにいたって、政友会は組織の拡大強化を迫られ、三年十一月十五日札幌公友会を発会させ、本郷嘉之助を初代会長に選出し、区会における勢力確保にあたった。ここに区会の二大政派、公友会(政友会)対実業同盟会(同志会)の構図ができたが、「区会に於ては純然たる政党的色彩判明せずと雖も、政友会に系統を有する公友会は勃然として政権の覇を示し、之れに対して憲政会(編注・同志会を中心に大正五年結成)趣味を有するもの少数ながら拮抗せんとする」(札幌案内 大正七年)状態で区制期を終える。なお、社会主義派の活動については第六章で触れる。