ビューア該当ページ

札幌の主要レンガ造建築

135 ~ 137 / 915ページ
 明治二十年代後半期の札幌の主要なレンガ造建築は、まず二十五年に札幌麦酒会社が穴蔵(貯酒蔵)、機関室などの一連の施設をレンガ造に改築することにはじまる。現在サッポロファクトリーのレンガ館などとなっている遺構である。翌二十六年札幌駅前にレンガ造二階建の興農園店舗が建ち、後に北側に増築して五番舘百貨店となる。
 明治二十年代後半期にレンガ造建築はどのくらい建っていたか。二十六年二月刊行『札幌区実地明細絵図』が示す、当時の札幌市街の一〇六件の建物外観絵図や同時期の写真・絵葉書からの推測だが、レンガ造建築石造建築よりもはるかに少なかったとみられる。この傾向は明治三十年代以降も同様であった。三十年のレンガ工場は亀田郡、札幌郡、空知郡、岩内郡、高島郡および根室郡に所在し、その焼成高は四五六万枚強にのぼった(北海道庁統計書 第一〇回)。三十一年、江別村野幌にレンガ工場が誕生する。やがて先進の白石村月寒村の生産をしのぎ、主要地の地位を占めることとなる野幌レンガの登場である。三十五年六月の『殖民公報』第七号は「石狩国煉瓦製造概況」を次のように述べる。
明治三十二年以降、煉瓦の需要著るしく増加したるは七師団建築用及官設鉄道工事に使用したるとに由り、又近年札幌、小樽等に於て家屋の建築に使用する高少なからず、其他枢要の市街漁村等に於ても漸次其需要増加せりという

 くりかえすが、札幌市街のレンガ造の建築量は石造(軟石)のそれをしのぐことはなかった。だが木造家屋の基礎、床、防火壁、煙突、竈、便槽などにも広く用いられるようになった。建材としての使用領域を広げた。なお右の『殖民公報』の記事にある漁村の需要は、ニシン漁場の竈の築造に使用されたことを指している。
 明治二十三年、函館郊外の上磯村に北海道セメント会社が創業し、道産セメントの供給体制が確立される。セメントは初めレンガ造、石造の結合材のモルタルの材料として、それまでの消石灰と砂の「灰とろ」に代わって使用される。次いでコンクリートの主材として需要を広げ、やがてレンガ、石材の位置をおびやかすこととなる。わが国のレンガ造建築には、明治二十年代から耐火性を増すため「耐火床」と呼ぶ波形鉄板の上部や、レンガで曲面天井のヴォールトをつくり、上部にコンクリートを打つ床構造とする構法が使用される。札幌では二十三年の北海道製糖工場と、二十五年の札幌麦酒工場の機関室とに採用され、わが国の早期の事例として現存する。レンガとコンクリートとの複合構造である。コンクリートや鉄筋コンクリートは、レンガ構造の建築物の中に入り込んでいくのである。
 大正五年完成の今井百貨店の再築の建築では、石材とレンガとの「混構造」が採用され、大通の西端に建つ十二年完成の札幌控訴院庁舎は、外壁の表面は石造、その裏側はレンガ造、二階床と階段は鉄筋コンクリート造の混構造が採用される。純レンガ造は十一年、南大通西七丁目に建った古典様式の独立教会クラーク記念会堂を最後に札幌では中絶の状態となってしまう。レンガは補助的な建材の役割を果たすにすぎなくなる。大正四年、北大農学部高岡熊雄宅に設置されたレンガ造丸ペチカを第一号に、昭和初頭までさかんに設置され、上流家庭のステータス・シンボルになったペチカへの使用がそれである。

写真-8 大正期の大日本麦酒株式会社札幌工場(レンガ造,札幌神社写真帖)