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日常生活の変貌

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 日露戦争前くらいから札幌区内の生活が徐々に変わりはじめた。三十六年に札幌食物改良会が設立され、会員を募って「精良新鮮将た廉価な栄養品を供給」することとし、曜日ごとに学生アルバイトを雇って配達した。たとえば、牛乳は毎朝夕、蔬菜は隔日、卵は水曜日、肉は土曜日という具合であった(北タイ 明36・11・29)。十二月段階で会員は六〇余人となり、牛・豚肉等の定期配達は好評だったようである(北タイ 明36・12・17)。
 このように一部の階層の人びとであったかも知れないが、かなり栄養価の高い食物を口にしていたことになる。このうち牛乳は、一合二銭五厘くらいで販売され、その普及は営業者が四十二年の場合わずか一〇軒である(最近之札幌)ことからも飲用者はまだ少なかったが、バターとともに普及しつつあったようである。ところで、札幌に西洋料理が入ったのは開拓使の頃からと古く、四十一年段階では豊平館、丸吉、精養軒、西洋軒、米風亭、有合亭、乳楽軒、幌陽軒等のアメリカ風の西洋料理屋があった(北タイ 明41・8・15、札幌事始 さっぽろ文庫7)。このうち乳楽軒では牛乳、ソップ(スープ)、洋食を目玉とし、一方西洋軒の方では三十八年料理の大改良を行って、清潔、低廉、出前迅速を旨とし、アイスクリーム、ミルクソーダ等もメニューにとり入れた(北タイ 明38・7・4)。

写真-1 西洋料理屋「乳楽軒」(札幌区実業家案内双六 明36)

 しかし、まだ洋食は一般化されたとはいえず、札幌神社の例祭、薮入等「ハレ」の日のもので、肉食よりもまだ野菜類や蕎麦など穀食中心の生活であった。
 子供のおやつには札幌・平岸村でとれたリンゴが安価に手に入り、また本州からの樽柿も平年の半値くらいで移入され、菓子の売れ行きに影響することもあった(北タイ 明36・11・14)。お正月に欠かせないミカンも暮れには店頭に山積みされたが、その年の景気で売れ行きも異なった。
 洋装は、明治初年頃は農学校生徒や巡査の制服、官吏の礼服等を通じて一般に普及していったが、明治後半になると会社員、商人、教師等にも広まっていった。需要の増加につれ、洋服屋、帽子屋営業者が増加し、古着と洋服とを同時に扱う商店も出てきた(最近之札幌)。日露戦争下の三十七年から翌年にかけて、愛国婦人会道支部では第七師団からの出征兵士のために軍用シャツ・ズボン下三五〇〇組の縫製を依頼されたが、この時威力を発揮したのがミシンではなかったろうか。日露戦後、シンガーミシンの販売店が札幌にお目見えする。
 しかし、一般的にまだ洋装よりも和装が幅を利かした時代で、毎年秋の取り入れが終わった頃、近郷近在から古着屋目指して買い出しに市街へ繰り出した。三十九年の場合、戦勝につられた好景気で木綿地よりは紬が売れたし、洋服も前年の流行はすたれて羅紗、縞等ハイカラが好まれた。女性のコートにしても東京で流行っているものはすでにすたれて、一本羅紗の黒地が好まれたり、角巻(かくまき)さえも地方の老婦人くらいで、若い女性は吾妻コート(あづまコート)を好んだという(北タイ 明39・12・8)。
 札幌に自転車がお目見えしたのは二十年代であるが、三十四年には早くも自転車競走が行われ、日露戦争下では過熱した自転車レースさえ行われた(文野方佳 札幌自転車小史 札幌の歴史一九・二〇号)。
 三十九年、札幌駅前にレンガ造りの店舗を新築した五番舘(四十年従来の興農園から通称名を採用)は、四十三年デパートメント方式を導入、女店員を配し、下駄、小間物、雑貨等舶来品を多く扱って市民をあっと驚かせた(北の女性史)。
 札幌駅から大通までのいわゆる停車場通の人びとの往来が一層頻繁となってきたのも日露戦争前後からで、三十九年以降札幌警察署では「左側通行」の励行をうながす(北タイ 明39・12・14)など道路管理にも目を向けはじめた。

写真-2 札幌区内の水撒き(北タイ 明39.9.13)