札幌には明治二十年代に、東京婦人矯風会の在札会員が数人おり、活動していたことはすでに述べた(市史第二巻)。札幌でも明治二十五年、北海道庁調度課長の伊阪員正と水産課長の伊藤一隆の二人によって婦人矯風会の設立がはかられた(東京婦人矯風雑誌 四八号)が、札幌婦人矯風会が正式に発足するのは三十一年十二月のことである。初代会頭には三谷小梅、副会頭に飯田文が就任し、三十三年現在会員は二五人であった(婦人新報三七号)。設立には佐々木豊寿(日本基督教婦人矯風会役員)と宣教師ピアソン夫人の少なからぬ尽力があったようである(同前 一九号)。初代会頭の三谷小梅は、三十年米国より帰国したばかりで、三十二年十二月の例会で海外売春婦の状況を報告し、改善と救助の必要を訴えるとともに婦人矯風会の一大責任と、説いた(同前 三二号)。
同会は、北星女学校の教師ドーテやのちに旭川・北見で廃娼運動を展開するピアソン夫人などが中心となり、飲酒の害を少年のうちから教育することを目的とした札幌少年希望隊を結成するなど、禁酒・禁煙・廃娼問題をテーマに熱心な活動がすすめられた(同前 三七号)。
三十六年十月、米国の万国婦人矯風会派遣委員のスマートがガントレット夫人と来札、十二日と十五日に日本基督教会堂にて組合教会牧師田中兎毛の通訳で矯風演説が行われた(北タイ 明36・10・11~14)。これを機会に矯風会入会者が八〇人も出、会員数も一一七人と増加し活気を帯びた。新入会者の約半数は北星女学校生徒であった。スマートは、ビールの産地札幌で大禁酒運動を展開して一応その成果に満足し、同会ではこれを機に、母の会課、花の課、少年課を設けて活動することとした(婦人新報 七八号)。
日露戦争における矯風会の対応はどうであったろうか。三十七年五月には矯風会は北海禁酒会と合同で時局に関する演説会を開催した(北タイ 明37・5・6)。一方、矢島会頭率いる日本基督教婦人矯風会は、出征軍人のために慰問袋一万個を贈ることとし、全国の会員に呼びかけた。札幌婦人矯風会でもそのうち五〇〇個を調製することとし、北星女学校のスミス校長が会員に調製を呼びかけた。慰問袋は幅一五センチメートル、長さ三〇センチメートル余の大きさで、戦地の兵士たちはこれを矯風会の便利袋と呼び、袋の中には筆・紙、はがき、鉛筆、歯磨、手拭、ハンカチのほか聖書も入っていた(北タイ 明37・10・9)。
四十三年八月には、大阪婦人矯風会会頭林歌子が来札、札幌基督教青年会館で演説会を開催した。演題は、「日本婦人矯風会の現況」と「四十二年大阪に於ける遊廊移転運動の顚末」であった(北タイ 明43・8・4)。
札幌支部として全国組織の仲間入りをするのは、大正二年(一九一三)八月の発会式を待たねばならない。この年七月二十二日、矯風会会頭矢島揖子が来札、すでに七九歳という高齢の矢島は、休養も兼ねて四〇日余り道内に滞在した。そして、七月から八月にかけては札幌区教育会、札幌婦人矯風会、婦人慈善会などの求めに応じ矯風演説を行った。八月十四日の矯風大演説会には二〇〇余人の来会者があり、田中兎毛の「矯風問題に就て」と矢島揖子の「婦人の覚醒」の演説が行われた。
やがて八月十八日、札幌婦人矯風会は独立教会において日本基督教婦人矯風会札幌支部として発会式を挙げた。来会者百数十人と非常に盛会だったようである(北タイ 大2・8・19)。札幌支部の会頭は佐々辰子で、独立教会牧師竹崎八十雄、組合教会牧師田中兎毛とともに矯風運動に非常に熱心であった。
その後の札幌支部の活動は、第一次大戦に際してはバザーや慰問などを他の女性団体と協力して行い、五年十月には愛国婦人会と共催で、時計台において札幌宿営の各将校、兵卒の慰問演芸会を開催したり(北タイ 大5・10・23)、八年には廓清演説会を開催するなどした(北タイ 大8・2・20)。また十年、八九歳の矢島会頭の二度目の渡米にあたり、矯風会と染め抜いた手拭三〇万本を作って後援することとなり、札幌支部でも一万本を引き受け、一本二〇銭で売り捌いた(北タイ 大10・10・3)。
このように、大正期に入って札幌の矯風会活動は、やっと全国組織の一支部に位置づけられ、禁酒、禁煙活動をはじめ、廃娼運動(第二節参照)の粘り強い闘いを展開しはじめた。