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日露戦争と小学校

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 明治三十七年二月に始まった日露戦争は、豊平村の歩兵第二五聯隊が出兵したこともあって、札幌区の小学校は戦争色に塗りつぶされた。文部省はロシアに宣戦布告をした二月十日付で訓令を発し、「国民挙テ忠勇ノ精神ヲ励マシ満腔ノ熱誠ヲ捧ケテ陸海軍ノ後援」(訓令第二号)を求めるとともに、この戦争の「国家ノ将来ニ及フ」影響の大きさを踏まえ、教員に対して「能ク学生生徒ヲ訓誨シテ青年子女カ国家ニ負ウ所ノ責任ハ将来益々重ヲ加フルニ至ル」ことの自覚を促した。小学生も戦時体制のなかに組み込まれ、一定の役割を演じることになった。その実態を北九条尋常高等小学校の『沿革誌』を軸に紹介しておこう。
 同校の『沿革誌』中の戦争関係記事の初出は明治三十七年二月十一日で、次のように記されている。「二月十日付宣戦詔勅被仰出旨其筋ヨリ通知アリ」。これを最初に日露戦争中の同校の『沿革誌』には戦争関係記事が頻出する。そのなかで最も多いのが出征兵士の送迎で、必ず小学生を動員している。これは先の文部省の訓令で「忠勇ナル陸海軍人カ国家ノ為メニ生還ヲ期セスシテ出征スルニ当リテハ満腔ノ同情ヲ表センカ為メ」送迎を奨励したことに基づいている。その一端を紹介しよう。まず明治三十七年である。
十月二十日 本日六回ニ互リ第二十五聯隊ノ将卒札幌駅ヨリ壮途ニツク職員児童一同見送ル
十一月一日 第七師団後備歩兵第二十六聯隊及第二十八聯隊ノ各一個大隊札幌駅着、同日市中ニ宿泊職員児童一同出迎フ
十一月二十九日 午前八時五十三分室蘭行列車ニテ歩兵第二五聯隊補充大隊ヨリ将校引率ノ下ニ二百人戦地へ向ケ出発、職員児童一同之レヲ駅ニ見送ル
十二月十日 歩兵第二十五聯隊補充大隊ノ一部、本明両日午前八時五十三分発列車ニテ戦地へ出発、職員児童一同之レヲ駅ニ見送ル
十二月二十一日 歩兵第二十五聯隊補充大隊ノ一部二百名、午前八時五十三分発列車ニテ戦地へ出発、職員児童一同之レヲ駅ニ見送ル

 三十八年に入っても送迎記事が頻出しているので摘記しておこう。
二月九日 午前七時札幌駅発列車ニテ歩兵第二十五聯隊補充大隊ノ内将校以下三百名征途ニツク職員児童一同之レヲ歓送ス
三月十七日 午前七時札幌駅発列車ニテ歩兵第二十五聯隊補充将校以下三百名出征、職員児童一同之レヲ歓送ヲナス
四月六日 午前七時札幌駅発列車ニテ歩兵第二十五聯隊補充大隊ノ一部将校以下百三十九名征途ニ上ル、職員児童一同歓送ス
四月二十日 午前七時札幌駅発列車ニテ歩兵第二十五聯隊補充大隊ノ一部将校以下二百八十二名征途ニ上ル、職員児童一同歓送ス

 日露戦争に動員された将兵は、内地勤務者も含めて一〇八万八九九六人に上っている(海野福寿 日清・日露戦争)。現役兵力だけでは足りず、『沿革誌』の記事にも一部が記されているように予備役、後備役、補充兵役まで動員した。同校の『沿革誌』には、こうした送迎記事が五月以降も五月九日、五月二十九日、六月二十九日、七月七日、七月十二日に見られ、七月二十八日まで続いている。出征兵士の送迎は北九条尋常高等小学校ばかりではなく、創成尋常小学校の『沿革誌』にも同様に記されていることから、札幌区の小学生は全員動員されたと考えてよい。文部省は出征兵士の送迎に関して、先の訓令で「学生々徒ヲシテ課業ヲ廃シ貴重ナル時間ヲ費サシムルカ如キハ忠勇ナル軍人カ在学ノ子女ニ期待スル所ニアラサル」と注意を喚起した。しかし、そうした送迎記事から判断して、文部省訓令は形骸化していたといえよう。
 次に小学生を動員したのは「戦捷祝賀会」である。明治三十八年一月五日、大通西五丁目で「旅順陥落祝捷会」が開催された。この時の模様を北九条尋常高等小学校の『沿革誌』は次のように記している。
旅順陥落シタルヲ大通ニ於テ祝捷会ヲ開催ニ付キ本校職員児童六百余名参列シ、午前十時三十分会長加藤寛六郎祝辞ヲ朗読シ、長官代理事務官大塚貢ハ大元帥陛下及陸海軍万歳ヲ唱へ衆之ニ和シテ開散(ママ)シ、其レヨリ仮装行列其他ノ団体市街ヲ練リ行キ、夜間ハ農学校中学校師範学校生徒其他有志者ノ提灯行列等アリテ盛大ナリシガ、此日群衆セシ者幾万人ナルヲ知ラス

 三十八年六月一日には、五月二十七・二十八日の日本海海戦の勝利を祝う「戦捷祝賀会」が開催された。ここでも小学生は動員されたが、それを同校の『沿革誌』は次のように記している。
午前十時円山神社ニ於テ臨時祭典ヲ挙行シ当校児童職員一同参拝シ、仝十一時直チニ大海戦祝捷会ヲ開キ式後数万ノ人々旗行列ヲ為シ各小学校職員児童之レニ加ハリ北海道庁札幌区役所札幌支庁ノ前ニテ万歳ヲ唱ヘテ解散セリ

 三十八年十一月十三日には、吉田元利(札幌女子尋常高等小学校校長)が総代となり、札幌区内の小学校の教員と児童を合わせて四〇〇〇人余りが大通西五丁目に集まり、出征兵士の凱旋式を開催した(北タイ 明38・11・14)。当日は凱旋兵士を代表して、泉中佐(歩兵第二五聯隊長)、毛内大尉(同聯隊副官)、丹羽中佐(同聯隊補充大隊長)も出席した。式は吉田の開式の辞から始まり、児童の「君が代」斉唱に続いて、泉が「区民及小学校生徒の熱誠なる歓迎」に感謝の言葉を述べた。丹羽も「区民の出征軍隊に対して強大なる後援を与へられ」たことに感謝した。最後に吉田の「大元帥陛下、大日本帝国、大日本陸軍の万歳を絶呼」に合わせて、「衆皆之に和し」て式を終えた。
 その一方で、戦死者の葬儀にも小学生を動員した。北九条尋常高等小学校『沿革誌』にはそれがしばしば記述されている。二、三の事例を紹介しておこう。「〔明治三十八年〕五月十五日 故陸軍歩兵軍曹原田玄吉ノ葬儀ニ本校尋常科第三学年一同受持教員本間順三及小山校長引率会葬セリ」「〔同年〕六月十二日 故陸軍歩兵上等兵斉藤吉次葬儀ニ本校尋常科第二学年(女)一同教員山角セツ之ヲ引率シテ会葬シタリ」。ちなみに、日露戦争による札幌区内の戦死者は三六人、「廃兵」は一五人に上っていた(北九条尋常高等小学校 沿革誌)。こうした戦争行事への小学生の動員は、小学校の教育活動そのものだったのである。
 このような戦争行事とは別に、各小学校では独自に戦況などを随時児童に講話したり、保護者も交えて幻燈会を開催したりするなど戦意の高揚と愛国心の涵養に務めた。北九条尋常高等小学校では、三十八年五月三十日に小山校長は児童全員を運動場に集合させ、日本海海戦の経過とその勝因について講話した。小山は勝因を「一ハ天皇陛下御稜威ノ普及ト歴代神霊ノ加護ニ依リ、一ハ我海軍将校以下一兵卒ニ至ルマテ誠忠日ヲ貫クベキ熱烈ナル愛国思想ノ迸リ出デタル由」(沿革誌)と分析した。ここで注目しなければならないのは、戦争を通して天皇制イデオロギーの注入を図っている点である(高橋敏 民衆と豪農)。同校では、また三十八年五月二十六日に幻燈会を開催した。『沿革誌』によると、「専ラ戦争画数十葉ヲ写シ男生及保護者ノミノ一覧ニ供シタルニ、無量六百余名ノ来観者アリ盛会ナリシガ、戦争ニ関スル概要ノ智識ヲ得タリシコトト信ズルナリ」と記している。これは日清戦争時にはじめて用いられた手法であるが、ここに児童らを戦時体制のなかに搦めとっていくプロセスを看取することができる。
 創成尋常小学校でも、児童に対して日露戦争に関する講話が行われた。同校『沿革誌』には「〔明治三十七年〕九月五日 遼陽占領ノ講話ヲナス」「〔同年〕十一月十一日 宣戦詔勅訓話」「〔明治三十八年〕三月二十日 奉天占領ニツキ講話ヲナス」のように三回の事例が報告されている。
 北海道庁は、日露戦争開始から約一カ月後の三十七年三月に訓令を発し、教科書の供給遅延に伴う教科毎の留意点と学校経営での倹約の励行を指示した(訓令第二三号、明37・3・5)。特に後者は直接的には「筆紙墨等学用品」の倹約を念頭に置いているが、北九条尋常高等小学校では「〔明治三十七年〕四月二十九日 戦時中経費節減ノ一トシテ事務員ヲ廃シ、授業料ハ当校職員ニ於テ之レヲ取扱フコトトナレリ」(沿革誌)と記すように訓令の趣旨を拡大して人件費の節減に踏み切った。
 日露戦争終了後の四十一年五月には、「戦役紀念」として陸軍省から各小学校に「戦利品」が払い下げられた。これは同省への申請に基づくものであるが(北タイ 明40・7・31)、北九条尋常高等小学校創成尋常小学校には「連発歩兵銃」「銃剣」「方匙」「三吋速射野砲薬莢」などが頒布された(両校 沿革誌)。これらの「戦利品」は先に述べた講話や幻燈会以上にリアリティがあり、児童に対して戦争への「理解」を深めるとともに、「抵抗心」を薄めていくうえで、大きな「役割」を果たしたといえよう。
 日露戦争期、小学校では戦争の賛美とその正当化の教育が徹底された。それを象徴しているのが、「明治三十八年一月旅順陥落之日調製」と記された篠路尋常高等小学校の「唱歌帳」(写真5)である。そのなかには「鳩ポッポ」「富士山」などと並んで、「軍艦」「旅順陥落歌」「広瀬中佐」「日本海々戦」という日露戦争関係の唱歌が多数掲載されている。同校の明治四十二年の「唱歌帳」にも多くの日露戦争関係の唱歌が掲載され、新たに「豊島之戦」「征露軍歌」「東郷大将」などが加わっている。こうした戦争賛美の教育は各小学校で実践されていたと考えてよいであろう。また、北海道師範学校教諭の岩谷英太郎は「軍国の当時に処して志気を鼓舞し、忠愛の志操を養成」するために、修身、地理、歴史、国語、算術、図画の各教科で「旅順口」を取り上げ、それを教材化することを提言した(北海道教育雑誌 第一四四号)。具体的には、修身科では「我国か前後二回旅順口を占領せし理由」「露国か旅順に奪撩の口実及其非理」「我海陸軍将士の忠勇美譚」などを例示した。まさに日露戦争の正当化以外の何物でもない。

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写真-5 篠路尋常高等小学校「唱歌帳」

 その一方で、当時の札幌では竹内余所次郎を中心とした社会問題研究会やキリスト者であった札幌農学校学生らの非戦論者の活動も展開された(松沢弘陽 非戦を訴えた札幌市民たち)。しかし、こうした活動も先の教育実践に対抗する大きな力とはなりえなかった。