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高岡直吉

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 高岡直吉(一八六〇―一九四二)が初代市長に就任するまでに、市制発足から半年を要し、その間市会は揉め抜いた。市会成立後二回目の市会で、市長銓衡委員九人を決め、第一に地元からの人選、第二に準地元関係者、第三に一般にわたり調査銓衡することになった。候補者として阿部宇之八(元区長)、東武(衆議院議員)、馬島渡(前拓銀役員)等がまずあげられたが承諾を得られず、市外からの移入に傾いていった。その結果、高岡直吉浜田恒之助(名古屋市長)、渡辺勝三郎(神戸市長)、山岸哲夫(札幌逓信局長)等の名があがり、山岸から内諾が得られそうだと伝えられたが、東京転勤によって実現しなかった。

写真-1 初代市長 高岡直吉

 銓衡委員は高岡一人にしぼって交渉をすすめようとしたが、市会憲政会系議員はあくまでも地元市長の実現をめざし、松田学市会議長を推して移入派と対立するにいたって、両派の調整に手間取り、高岡にまとまってからも、市長年俸八〇〇〇円(門司市長は九〇〇〇円)、家族同伴、市役所人事は世論尊重の三条件を付すかどうかで意見を異にした。年俸は一万円以内と修正し、他二点は軽い意味での希望にとどめることとして、大正十二年一月二十六日、やっと初代市長候補者三人を内務大臣に推薦する選挙が市会において行われた。これにより第一候補者に高岡が、第二安東俊明、第三阿部が選ばれ、内務大臣に推薦され、天皇裁可を受けて高岡が初代市長に就任したのである。
 昭和二年二月十二日、初代市長の任期満了を迎えるにあたり、市会各派は高岡に再三留任を懇願したが固辞して譲らず、結局後任市長候補をさがす期間(年内)を条件に再選に応じた。しかしこの年、市の土木工事の不正・経理課職員による公金不正使用事件が起き、それを究明しようとする市会と市長辞任日が重なって議場が混乱し、市長退席のまま、あと味の悪い退職になってしまった。
 四年一〇カ月の在任期問に、高岡は都市基盤整備計画を樹てることに意をそそいだ。全国的にも、また函館・小樽両市にくらべても、札幌市は都市計画事業がたち遅れていたので、水力発電、電車、上下水道、道路建設等に取り組み、また教育計画を立案しその遂行に奔走し、粘り強い慎重な行政手腕が高く評価された。
 高岡は島根県の出身で、のち北大総長となる高岡熊雄は弟である。札幌農学校を卒業後山口県庁に就職し、明治二十年北海道に来て郡長、道庁課長、部長を歴任、四十一年から宮崎県、島根県、鹿児島県の各知事、大正七年から十一年まで門司市長をつとめ、札幌市長をやめてのちは東京で生活することが多く、昭和十一年天皇行幸の折は開拓功労者として単独拝謁した。