ビューア該当ページ

一級町村制の施行

173 ~ 175 / 1147ページ
 諸町村のうち、豊平村は明治四十年(一九〇七)四月一日に一級町村制が施行されていたが(明41・6・12豊平町と改称)、他村に相次いで施行となるのは大正十二年(一九二三)以降である。当時の一級町村制を施行する要件は戸数一〇〇〇戸以上、人口五〇〇〇人以上、公民権者一五〇人以上、徴収諸税二万円以上、町村の財産収益年額一〇〇〇円以上という条件が付されており、さらには自治観念、村内の融和なども加味されていた。人口に関しては琴似、札幌白石村は五〇〇〇人を超えており、まず以上の三村が施行の対象として検討されることになる。
 最初に琴似村が大正十二年四月一日に施行となった。琴似村は他の要件は満たしていたが自治観念につき、「本村モ曾ハ屯田兵村ノ余弊ヲ享ケ部落観念ニ捕ハレ兎角円満ヲ欠ク嫌アリシモ、近年漸次相理解シ和衷協同以テ村治ニ尽サントスルノ傾向アル」とされている(町村制施行書類 二 道図)。かつて琴似村では役場庁舎の所在地をめぐって紛議の時期があり、大正九年九月の新庁舎竣工によりようやく決着をみることになったが、おそらく上記のことをさしているのであろう。しかし、その後の「和衷協同」が認められて施行されたものであった。
 続いて札幌村が十三年四月一日に施行となる。札幌村は琴似村と共に十二年度からの施行が検討されたことがあった。ところが道庁から諮問を受けた石狩支庁では十一年九月に、「村民ハ極メテ消極主義ヲ固持シ自治観念ニ乏シク、各部落民ハ相互割拠ノ弊習強固ニシテ断シテ譲ラス」とされ、その例証として小学校の改築問題が挙げられ、「村民ノ自治観念幼稚」「団結力ニ乏シ」を理由に、一級町村制は「尚両、三年ハ施行スルノ適当ナラサルヲ認ム」と答申し施行が見送られていた(同前)。それにもかかわらず、再度十三年からの実施が石狩支庁に諮問され、支庁でも同様な理由で実施不可を答申したのであったが、道庁の強い意向で十三年度から施行されることになったのである。道庁では当時、地方費の削減、行政整理の目的で二級町村を一級町村に昇格させることを推進していたからである。
 藻岩村も人口五〇〇〇人を目前とした大正十三年度よりの施行が検討されたことがあったが、
今一級町村制ノ実施ヲ見ンカ少クモ一戸平均負担額三十八円余ニ激増シ村民ノ到底負担ニ堪フル所ニアラス。殊ニ山鼻村ノ大部分ハ既ニ村費ノ負担過大ナルヲ訴ヘツヽアル実情ニシテ一級町村制ノ実施ハ不可能ナリト認ム。
(町村制施行書類一級)

とされ、財政負担の問題で実施が見送られた経緯があった。その後、藻岩村は昭和六年(一九三一)度からの施行が石狩支庁に道庁より諮問された。これに対して藻岩村は、役場庁舎改築、円山小学校増築、貯水池、国道筋の側溝建設など村内施設の整備をかかえており、一級町村としての財政負担に堪えないこと、さらには大字円山村が札幌市へ併合となる可能性も指摘した上で、「此際一級町村制ノ実施ノ適否ニ関シテハ宜敷御裁断アランコトヲ望ム」と、支庁では昭和五年十二月に道庁へ答申し判断を一任していたが(一級町村制申請綴)、六年四月一日より施行となった。
 白石村は昭和七年六月一日から施行となったが、すでに六年四月からの施行がやはり諮問されたことがあった。しかし、住民の大部分は小作農、下級労働者であり、しかも不況下であることを理由に「実施スルハ適当ナラサルモノト認ム」とされ一度は見送られていた。そして翌七年六月一日から施行されたのである。
 手稲村については、すでに昭和七年に人口五〇〇〇人を超えたことにより、十一年十二月に道庁より支庁に諮問があったが、支庁では十二年二月に「適当ナラザルモノ」と施行の不可を答申した。その理由は、同村は近年人口が増加し発展の様相にみえるが、これらは手稲鉱山に関係したものであった。しかも同鉱の労働者は「担税力至ッテ低度」であり、村の発展に結びつくものではないとし、手稲鉱山も「探鉱中」であり、「本鉱山ノ企業拡張ニ依ル村勢ノ進展ハ今俄カニ之ヲ期待スルヲ得ズ」として否定的にとらえていた。また、村の財政も一級町村に対応する増負担の能力を欠き、現在の緊縮財政を維持するのが精一杯であって、「一級町村ヲ施行スルハ適当ナラザルモノト認ム」とされ実施は見送られた(一級町村制施行調査書類)。こうして手稲村と人口が五〇〇〇人に満たなかった篠路村の二村のみは一級町村となることはなかった。