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普通選挙

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 大正十四年五月五日より衆議院議員選挙法が改正となり、財産、国税額による制限が撤廃されて満二五歳以上の男子なら、すべてに選挙権が与えられる普通選挙制が実現をみた。普通選挙制は府県制・市制・町村制の改正によって、十五年六月二十四日から地方選にも適用されることになったが、北海道では昭和二年十月一日に施行となった北海道一・二級町村制の改正をまって実施されるようになる。これによって有権者数が大幅に増加し、ある程度の民意が町村議会にても反映されるようになった。なお、これによって一級町村で行われていた納税額による一、二級議員も廃止となる。
 各町村における改正前と改正後の町村議会有権者数を比較すると、札幌村では二五四人から一三三九人、琴似村では二五二人から一二四〇人、手稲村では二三四人から七九六人へと(各村勢要覧による)、約四、五倍の増加となっていた。
 普通選挙法のもとでの初めての町村会議員選挙は、昭和三年五月三十一日に実施された豊平町、及び六月一日の篠路、手稲、藻岩、白石の各村の選挙であった。たとえば豊平町では前回(大13)選挙では三八六人であった有権者が、今回は一九五〇人に増えていた(豊平町史資料 七)。藻岩村では三〇〇余人から一挙に一二二二人となり、定員もこの選挙より一〇人から一八人に大幅な増員となったが、この定員に対して二五人もの立候補者があった。藻岩村には円山を中心として新居住者が増加していたのであり、「新居住者の方からも続々候補の名乗りを挙げて来るので之までの万年村議連も安閑として居れず、勢ひ積極的に対抗競争する事とな」ったと報じられており(北タイ 昭3・5・31)、「新居住者」と「万年村議連」との競合も激しくなっており、旧来のような無風選挙ではなくなり選挙運動も従来とは様相を異にするようになっていたのである。六年六月に一級町村となってからの初の村議選でも、定員一八人に対して二二人が立候補し、総投票数は一二五三票(無効一〇八、棄権二二三)に及んでいたが、棄権者の多い都市型選挙の様相であったといえる。十年六月の村議選では札幌市との合併、佐藤村長の再選などが争点となったようであり、大多数を占める新住民の意向が村政を左右する状況となっていた。
 また、昭和期に入ると村議選にも政党色を帯びるようになり、政友会民政党との激しい選挙戦が展開されるようになった。各町村の新聞報道で判明する政党別議員数を摘記すると以下の通りであるが、やや政友会が優っているものの札幌村、手稲村などの二級町村では民政党が上まわっていた。これらが村政に実際的にどのような影響を及ぼしていたのか不明であるが、中央政治の動向が村議選にも反映されるようになったのである。
            政友会 民政党 中立
  昭和三年  札幌村 一一人 一二人 一人
  昭和七年  白石村  九人  六人 三人
        豊平町 一三人  九人 二人
        篠路村  七人  四人 一人
        手稲村  四人  六人 二人
  昭和十一年 白石村 一〇人  五人 三人