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町村部の商業

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 豊平町では、大正十年前後の月寒聯隊正門前の月寒本通に食料品をはじめとする商店が連続・密集していたという。これに対し、美園通には二、三軒しかなかった。また定山渓は、豊羽鉱山の需要と行楽・観光客需要により土産店、菓子店、飲食店が多かったという(豊平町史)。平岸には、明治・大正期創業の二軒(木村・奥村商店)があり、食料品・雑貨を扱った。中の島には昭和に二人ほど食料品取扱商があらわれた(澤田誠一 平岸百拾年)。
 札幌村では、昭和二十五年刊行の村史に「農業を対象とする小売雑貨商が村内の諸部落に十七軒点在している」とされるが、札沼線敷設以前には「烈々布には多くの雑穀商や麻の買付商店が並んで」おり、「篠路、石狩、当別、青山方面から雑穀、麻を買出して、札幌市や烈々布近在の製麻会社に原料麻を供給した」という(札幌村史)。
 円山地区は、明治末にすでに一三軒の商店が南一条西二四丁目を中心に存在したが、その後ほとんどが廃業ないし転出した。しかし戸口の増加につれて商店も増え続け、「昭和七年頃の円山小売商連合会所属の小売商店は約百店」だという(円山百年史)。
 琴似村では、明治期には札幌から買い入れる場合が多かったために、商業の発達が阻害されたが、それでも明治四十一年の物品販売業者は三二戸を数えた。大正期には、「札幌商人の近郊への売り込みは更にはげしく、大正八年には五番舘ではフォードの配達自動車二台を用意していて、五円以上の買物をすると、琴似まで品物を送り届けてくれる」というサービスを始めたという(琴似町史)。しかし昭和五年の住宅地図によると、琴似本通(停車場通)には、琴似駅から札樽国道にかけて約四〇軒の商店が建ち並び、商店街を形成している(札幌歴史地図 昭和編)。
 新琴似地区では、四番通の新琴似神社から覚王寺にかけて、食料品、雑貨店が数軒建っていた。昭和十一年刊行の『五十年史』には物品販売業五戸、理髪店・運送店・柾屋・豆腐屋・大工兼請負各一戸とある(新琴似百年史)。屯田地区では、明治三十五年創業の広瀬商店があり、昭和戦前期には農業との兼業で営業を続けていたという(屯田百年史)。
 手稲村では、大正期の当座帳によると軽川に国領商店など一一軒、手稲東に久守商店など二軒、西野二股、星置に各一軒商店があったようである(手稲町史 下)。