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関東大震災後の札幌の文化

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 札幌はもちろん大震災にあうわけではないが、東京の震災後から昭和初期にかけての大衆文化の成立をうけて、ほぼ同時代的に文化状況が進行する。
 人の移動を具体的にみれば、たとえば旧帝国ホテルの建設にかかわった田上義也(のちに札幌新交響楽団の創立にかかわる)が、大正十二年にバイオリン一丁で札幌にやってきたことに象徴されるように、東京から札幌への文化人の震災による疎開・移住があった(前川公美夫 北海道音楽史)。
 田上義也は昭和四年に回想している、
六年前の(北光)トリオ創設当時の本気さだ、震災に追はれたセロの飯田(実)と僕は小川隆子夫人のピアノにかじりついてよく弾いた、冬から春───夏から秋にかけて三人は吹雪の夜に鎬(しのぎ)を削り合ふてべートウベンの第一より第五迄の全曲を解しやくし得た───それは全く異常なる力が我々を動かしてゐたのだ───札幌の静かにして気短な自然の荘厳さにはべートウベンの感動の写実が深くひそんでゐることを知った。
(札幌音楽協会 サッポロの音楽 創刊号)

 また関東大震災の罹災により、長唄三味線方の四世杵屋勝太郎や、札幌長唄芙蓉会を開軒する山田喜代が来札した(札幌市史 文化社会篇、さっぽろ文庫72 札幌の邦楽)。
 さらに関東大震災後の「アヴァン・ギャルド」の美術運動を札幌でになう北大予科の学生であった外山卯三郎(詩人・美術史家)は、東京への帰省中に築地小劇場を体験する。立体の抽象であるキューヴィズム、フォルムや原色の色彩に主観を重視するフォーヴィスムといったアヴァン・ギャルドの美術の影響を受ける。北海道に帰った外山は、第一回道展に、既成の芸術活動を否定するダダイズムの影響を受けた「総合的第五級触覚主義的画面構成による自画像」を出品し、札幌詩学協会を設立。版画と詩作の雑誌『さとぽろ』を創刊する。札幌詩学協会は、A、詩の研究―1音楽、2文学、3美術、B、劇の研究―1演技、2舞踏といった、二部からなる総合的な芸術研究を目指した(さとぽろ 創刊号 大14・6)。
 ここで重要なのは、震災の翌年大正十三年に土方与志や小山内薫らが、ロシアやドイツの「翻訳劇」を上演した築地小劇場の出現そのものが震災後の新劇史を画する事件であったことである。また外山卯三郎が「大正十四年六月から刊行した雑誌〈さとぽろ〉を中心とした、創作版画の美術活動と北海道におけるアヴァン・ギャルド精神」が、「関東大震災直後の〈日本におけるアヴァン・ギャルドの美術〉」をうけて成立したと、のちにみずから回想しているように、まさに東京における大震災後の文化状況が札幌に花開いたのである(日本洋画史)。