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戦時下の「風土」「郷土色」の喧伝

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 日露戦後の地方改良運動の時期から、国家レベルのナショナリズムの高揚と、郷土への歴史意識の涵養は国家的な課題となるが、昭和六年の満州事変を画期として「郷土教育」が高唱される(札幌百年のあゆみ)。
 六年四月から半年間、札幌放送局が北海道郷土史講座を開くし、八月一日から三日まで、北海道小学校校長会・北海道聯合教育会主催の郷土教育研究会がおこなわれ、札幌市内各小学校における郷土教育も盛んになった。また北海道初等教育研究会の『北海道郷土読本』が編集刊行され、故河野常吉を偲び、「この会合を史談集会の名に於て時々開催、北海道関係の研究を続けん」として「犀川会」が発足した(犀川会第一回報告)。
 郷土への関心は、美術の分野でもあらわれ、北海道美術協会の中心メンバーであった今田敬一は、「道展の洋画」(北タイ 昭10・9・27夕)で、「北海道の画家たちが透徹した自然観照、真実に基礎をおく美の創造、深い生活意識に立脚した良き作品をつくるなら、当然そこに絢爛たる郷土色が発揮される」と述べるが、こうした問題意識は、翌十一年第一二回道展における、地域別の展示につながる(今田敬一 北海道美術史)。審査員の菊地精二は、「地方色と各自の勉強を重んじて、本年は大体地方別に陳列してみることにした」と述べる(北タイ 昭11・9・4)。
 「郷土」あるいは「風土」への回帰は、日中戦争期になると北方文化論や屯田精神の提唱となってあらわれるが、美術におけるアイヌ民族を画題とする動向も、その北海道的具現である。
 本間莞彩の昭和十五年以降の「糸よるメノコ」「アイヌ婦人像」をはじめとするアイヌ風俗の連作について、土岐美由紀は「この時期の作品ではアイヌ民族のもつ独自の美意識や情趣をいかに描出するかが課題とされ、さらにそれは画家自身が生きる風土を象徴するものとして意識されたのである」と述べるが、このことはまさに「北海道で何をモチーフに日本画を描くか」という戦時期の課題とかかわっていた(「本間莞彩」)。そして、土岐は本間莞彩への影響として、上野山清貢(きよつぐ)の作品をあげる。札幌で開かれた十二年十月の上野山清貢の個展には、新文展にだされた「盲目の老酋長」をはじめとする作品が出品され、「アイヌ民族の生態を描いたゞけに一般観衆から親しみ」をもたれたと、新聞には報じられた(北タイ 昭12・10・8)。上野山自身、
リアルを追及する画家として私は最初、ありのまゝ現在のアイヌの生活、云ひかへれば、洋服も着、靴も履いたアイヌを描きたいと意図したが、やって見ると矢っ張りうまくゆかなかった、今度百号に描いた老酋長は初めゴム靴をはいてゐたのだが、北大の児玉(作左衛門)さんの助言に従って、跣足(はだし)にしたらこの方が良くなった、荒々しい魂と純朴な善良さを、裸のまゝの生活から描き取りたいといふ私の望みが、どこまで達せられてゐるか、北海道の皆さんに見て頂ければ幸です
(北タイ 昭12・10・6)

と、制作にあたって態度を述べている。しかしそこに描かれたアイヌ民族像には、あくまで「和人」の視線で創られた「異民族性」の強調が看取できる。
 また音楽においても、ワインガルトナー賞を昭和十四年にとる早坂文雄が十三年八月にユーカラに題材をとった「虎杖丸」を編曲している。翌年には追分節を主題とする「雪国に寄せる交響詩」を作曲する。この曲は十四年六月五日にIK(札幌放送局)開局記念放送で、札幌新交響楽団・札幌放送合唱団によって演奏されている。「北国特有のひゞきを持つ北風、浪の音などが交響楽と合唱によって描き出されその最高潮に達するや湧然と正調追分の切々たる哀調『忍路高島……』がリズムに乗り余韻を寂しく」と新聞は予告する(北タイ 昭14・6・2)。早坂は、「西洋音楽移植時代を通過して真に国民的なものが要求せられてゐる時代」と認識する(開局記念出征軍人家族慰安放送実演会番組)。また、「日本狂詩曲」でチェレプニン賞を昭和十年にとった伊福部昭も、十五年八月の紀元二千六百年の記念聖火祭で、雅楽の「越天楽」をロンド形式にアレンジした作品を発表している(北海道音楽史)。