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ララ救援物資

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 敗戦直後の日本には、よるべなき戦災孤児・戦災者、「戦争未亡人」、復員者、引揚者が巷に満ちあふれていた。そんな窮状に対して米国のアジア救援公認団体・ララ(LARA)活動や米国青少年赤十字団によるギフト・ボックス、ユニセフ(国連国際児童緊急基金)などによって救済の手が差し伸べられた。なかでも、ララ活動は、在留邦人などが中心となって起こされ、全米へと拡がり、組織は、米国の社会事業、宗教、労働団体など民間一三団体で構成され、戦争によってもたらされたアジア諸国の生活困窮者を救済するために大統領公認団体として昭和二十一年(一九四六)十一月から二十七年六月まで実施された。日本向けの第一回救援物資の道内への到着は、二十二年三月のことである。初年度の場合、「LARA委員会から生活困窮者救援のため三回に亘り食糧品、衣料品、医薬品等が各社会事業団体に配分」(昭22事務)されるしくみになっており、札幌市の計画に基づいて北海道庁から配分された粉ミルク、乾燥卵、石けん、果物、砂糖の缶詰、衣類(オーバー、ズボン、赤ちゃん用肌着、靴下、婦人服、玩具)などが札幌報恩学園札幌育児園札幌明啓院(救護施設)など八カ所に収容されている乳幼児、戦災者・引揚者たちに配分となり、乳児二三人、幼児三二一人、学童四一四人、大人七三〇人など、合わせて約一五〇〇人が対象となった。内訳は、食糧品が一万五七〇一・二二九ポンド、ビタミン二八〇〇匁、衣料品五五四一点、石けん二一五ポンド、薬品三五二〇錠・一六一本、靴一九九点、鉛筆七五(単位不明)、サントニン三〇〇(同)であった。物資の配分は、社会事業施設の場合年三回くらい行われた。
 札幌報恩学園では、二十二年の場合三月、八月、十二月に配分された。十二月の場合、粉ミルク、チョコレート、乾燥卵の缶詰、靴等が配分され、子どもたちが歓声をあげて喜んでいる写真や小池九一園長の「丁度クリスマスも近づいており、暖かい靴などの贈物をいただき、サンタクロースが訪れたようです」と、『道新』(昭22・12・4)にコメントが載っている。同学園では、二十三年七月ララ山羊三頭が到着、山羊の乳のみならず子どもたちの情操教育にも役立った(写真1)。しかし、うち一頭が死亡し、皆で「山羊の葬式」を行っている。同学園にはララ中央委員、進駐軍、新聞社記者、厚生省次官・社会局長・児童局長などの来園・視察が相次ぎ、その応対に追われる一方、ララ物資の帳簿整理、経理報告、予算書作り、物資受領等々、多忙を極めた様子が当時の資料(札幌報恩学園・山下充郎 日記より抜粋)からも窺われる。二十五年一月には本道向けに一五トン・貨車五両のララ物資が到着した。北海道社会課では、国立病院勤務の職員、道庁、保健所、開拓地勤務の保健婦たちの靴一万六〇〇〇足、戦争未亡人要保護婦人世帯用衣料六万六〇〇〇点、国立病院療養所用食糧一万一六七五ポンド、社会事業施設用食糧三万九八三〇ポンドなどの配分を決めた(道新 昭25・1・6)。そんな中で同年十一月には丸井今井百貨店内にある「北海道新聞ニュース映画劇場」にララ中央委員たちを招いて「ララ感謝大会」を開催、札幌報恩学園をはじめ札幌育児園、札幌養老院、札幌市鈴蘭寮等代表から感謝の言葉や花束が贈られた(道新 昭25・11・18)。ララ物資の配分は、二十三年をピークに二十七年六月で終了し、全国の受入総合計は三三四七万ポンドに及んだ。なお、「ララ感謝大会」は全国各地で開催された後、二十七年四月には全国各地の代表者が東京に集まり、「全国ララ感謝大会」も開催された(ララ記念誌)。

写真-1 札幌報恩学園のララ山羊

 なおGHQでは、ララ物資に関して次のことに配慮した。
日本政府に対してララが日本に送付した救援物資を受領し、保管・管理し、分配することを指令。
厚生省社会局がララ計画の管理・責任を負い、ララ救援物資中央委員会が全般的な福祉計画をまとめ、それに基づき都道府県の福祉担当部局が救助が必要な施設・個人に物資配分を調整すること。
ララ計画は粉ミルクの配分を慎重に行い、乳児院等に収容されている乳児たちの優先、子どもや身障者、老齢者が優先的に配分を受けられるようにすること。
(GHQ日本占領史)
 ララ計画は、こうした綿密な計画のもとに実行に移され、乳幼児から高齢者にいたるまで飢餓から救われたことは確かである。この計画が、日本の敗戦の翌二十一年六月に立案され、占領政策過程で実行に移されたということは、占領期の福祉政策にも少なからず影響を与えたことはいうまでもない。なお、ユニセフによる脱脂粉乳給食の開始は、二十四年十月の札幌市立豊平小学校が最初である(道新 昭25・10・9)。