占領軍による医療政策では、占領地札幌の徹底した衛生調査から始まって、敗戦国日本の衛生・医療が大きく前進したことも確かである。占領軍は、建物接収にあたり、水洗便所を備えた洋風建築を第一条件とし、真駒内米軍基地に水洗便所を完備するとともに、浄化処理を備えた下水道の設置(最初不十分な浄化装置のため豊平川を汚染させた)、米軍専用水道設備の完成にまずみられた。そればかりではなく医療・衛生関係機関への駐屯・接収後、復員者のマラリア調査を行ったり、野戦病院、衛戍(えいじゅ)病院のほかに、将校専用の病院等、医療機関のための建物接収も少なくなかった。
敗戦直後の札幌には、復員・引揚などにより大量の人口流入をもたらし、それはまた、急性伝染病の蔓延をももたらした。中でも発疹チフス、痘そうは、炭鉱地帯に戦時中強制的に「移入」(=強制連行)させられていた朝鮮人労働者の間に集団発生したもので、栄養状態に加え、劣悪な衛生環境が死者多数の惨事を招いた。全国への伝染病の伝播を恐れたGHQは、進駐軍防疫隊を出動させ、大量のDDT散布でシラミ駆除を行ったり、ワクチンの投与や予防接種による防疫体制をとったことは、終息まで時間がかかったというものの、日本人がかつて経験したことのない予防医学の導入であり、「DDT革命」と呼ばれるゆえんである。
GHQの公衆衛生行政の一環としてスタートしたものに、札幌モデル保健所の開設がある。旧保健所法(昭12施行)により北海道庁立保健所として、旭川・函館両市(昭13設置)についで、札幌市に十九年に開設されていたが、GHQは二十三年政令市制度を発足させ、人口一五万人以上の市を保健所設置主体として、これにより札幌・函館・小樽三市に市立保健所を設置した。モデル指定により、従来の疾病予防、保健指導に加え、上下水道・医療社会事業・清掃事業などの指導のほか食品衛生・環境衛生業務、試験・検査、および性病・結核・口腔衛生には予防的治療を実施することになった。なかでも衛生教育部門は、保健看護係に保健婦を配置し、全市を分担し、担当地区の訪問指導を強化実施した。保健婦訪問による医療社会事業は、後の医療ソーシャルワーカーの前身となる(六章六節参照)。
占領期教育政策では、敗戦、被占領というはじめての事態の中から、札幌市の戦後教育政策がスタートした。軍国主義的・超国家主義といった戦時教育から新しい米国流民主主義教育への転換が行われた。占領軍の進駐、軍政部による実質的な「監督」「指導」のもと、二十二年に新学制が発足し、小・中学校が設置された。特に設立に困難を極めたのが、新制中学校である。教育内容においても、新教育の風潮の中でコアカリキュラムが開花した。教育行政においても、教育委員会制度が成立し、二十三年十月にはじめての北海道教育委員会選挙が、また二十七年にははじめての札幌市教育委員会選挙が行われた(八章一・二節参照)。また民主化教育の一環として、従来本当の意味で日本にはなかった社会教育の分野において特に熱が入れられた。成人学校、婦人学級、PTA活動があげられ、地域における施設として公民館や地区集会所が活動の拠点となったことはいうまでもない。なかでも二十五年、民事部・ギャグナーが講義した「デモクラシイクラス」は、上意下達の旧習を改め、システムとしての民主主義の技術的方法を伝授した。事業計画の立案・大会の開催・討論・報告会での総括といった一連の伝播方法は、他の団体活動にも実践され、効果を挙げた(昭25事務)。