二十八年六月、小笠原貞子は国際民主婦人連盟主催の第三回世界婦人大会に参加した。北海道から民間女性の国際会議参加は戦後最初だったので、大きく報道されて関心をよび、全道から一〇〇万円以上のカンパが寄せられた。「コペンハーゲンの世界婦人大会へ送りましょう」とよびかける一八人の推薦人に、女性では井口ゑみ・上田歓子・水島ヒサ、そして竹村マヤらのちの市婦連協のリーダーや、国鉄札幌地方本部と北教組の婦人部長が名を連ねた。小笠原は矯風会や友和会(キリスト者平和団体)の活動から「純潔教育」について各種婦人会で発言し、二十七年十一月二十五日、札幌市議会風紀取締条例改正聴聞会には口述人として意見を述べた(八期小史)。かたわら、朝鮮戦争に際して米軍基地の拡大により「夜の女」(六章五節参照)の激増した千歳町の実態調査に同行し、売春従業婦増加の社会的背景に開眼して平和運動にすすみ、二十八年三月北海道平和大会の議長をつとめた(面を太陽にむけて)。
世界婦人大会の報告活動の中から二十九年十一月、「世界の平和と子どもの幸せ、婦人の権利を守るため、世界の婦人と手をつなぐ」ことを目的に北海道平和婦人会が発足した。初代会長は小笠原貞子、加盟団体には日本炭鉱主婦協議会北海道地方本部(道炭婦協)、北教組・国鉄・帝国製麻など各労組の札幌支部婦人部、婦人民主クラブ、在日朝鮮民主女性同盟などもあった(平和としあわせのために)。
三十年四月に札幌で「参政権獲得十周年全道婦人の集い」が開かれた。全道労協・平和婦人会など三四団体の共催で、約一〇〇〇人が「婦人と政治、生活の合理化、婦人と職業、母親と先生、子どもの環境、女子学生と母親、家族計画」の七分科会で討議をすすめ、原水爆の製造・使用反対、電気料金の値上げ反対などを決議した(道新 昭30・4・11)。この会の後、母親大会代表派遣準備会が作られ、日本大会に四二人、世界大会(日本代表団一四人)に多嶋光子(道炭婦協会長)と梅田幸子(北海道母子福祉連合会会長、ただし当時は日鋼主婦会代表代理として)の二人を送った。狸小路商店街の全商店にも派遣費用の募金活動が行われた(北海道母親運動四〇年のあゆみ)。
国の内外に母親運動を生み出したのは日教組婦人部であった。「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを掲げ教育研究集会が発展する中で、二十九年一月「お母さん、日本の子どもを守りましょう」と母と女教師が手を結ぶ運動をよびかけたのが原点である。北教組では三十一年の婦人部委員会で「全道母と女教師の集い」の開催を正式に決定した。第一回はその年五月二十日札幌市で開かれ、一七〇〇人が参加して「教育費の家族負担と学習について、子どものよい環境をつくるために、働く子供・恵まれない子どもをどう守るか、婦人の生活と権利を守るために」の四つの分科会討論で、教科書の無償配布と、託児所増設・特殊教育施設の拡充強化を関係方面に要求することを決議した(北教組史 第三集)。
すでに前年の三十年に道内二四カ所で取組みが始まり、札幌では「思春期の問題」をテーマにしたパネル討議に五〇〇人が集まった。世界母親大会から帰国まもない梅田幸子も挨拶をした(札幌市母と女教師の会15周年記念誌)。札幌市教職員組合(札教組)の婦人部役員だった津田カツ(柏中)・梅田瓔子(一条中)・坪谷道子(美香保小)の三人がよびかけ、札幌の女性教師は半数以上参加し、会場設営から会の運営・司会などすべて、初めて女性教師と母親の手でやり遂げ、翌年から市内で地区集会を開くとどの会場も溢れるような盛況であった(風雪に旗は高く)。「先生は教壇から一歩下がって、お母さんは敷居から一歩上がって、子どもを中にはさんで話し合いましょう」を合言葉に、三十年代後半に地区集会の参加者は二〇〇〇人をこえ、全市の集会は一〇〇〇人前後となった。三十五年、全道の集いに坪谷(教員)と小林ハル(母親)は、市内七〇の各小中学校から母親四人・教員二人ずつの推進委員を選び、さらに代表を選出して運営にあたる札幌市の経験を発表した(札幌市母と女教師の会15周年記念誌)。札幌市母と女教師の会は、三十三年に旭丘、三十七年に開成と二つの市立高校を誕生させる高校増設運動の原動力にもなった。
北海道母親大会は三十三年四月十三日、札幌市で開かれ二〇〇〇人が参加した。大会責任者は水島ヒサ、事務局長は小笠原貞子で、分科会助言者には市教委の高橋学校教育課長・小梁川社会教育課長、司会には母と女教師の会や北大女子学生の姿も見られた。「よい子とは、健康な子供、今の学校教育について、若い世代の問題について、職場における婦人の地位、働く婦人の賃金について、婦人の権利を守るために、明るい家庭を作るには、平和を守るために、今後の運動のすすめ方」の一〇分科会での討議から、「勤務評定反対、保育所の設置、最低賃金制の確立、民法・労働基準法改悪反対、核実験の即時中止」など二二項目が決議された(北海道母親大会議事録)。北海道母親大会は毎年札幌で、全道母と女教師の集いは道内持ち回りで開催され、運動の初期に両者は重なり合って発展し、小児マヒワクチン緊急輸入を実現させるなど成果をあげていった。