明治末期から戦前にいたる社会教育は、実業補習学校や青年訓練所など学校教育を補足する教育として出発したが、昭和十四年(一九三九)に青年学校の義務化によって軍事的予備教育として体系化され社会教育の主軸をなした(札幌市にも市立、私立あわせて約五〇校の青年学校があった)。また、戦時末期には勤労動員に終始した。戦後、一部の当事者から学校教育としての存続を望む声もあったが廃止された。小学校を借り学校教員や村の有識者、在郷軍人に頼っていた青年学校は、後の社会教育に引き継ぐ遺産をほとんど持たなかった。それゆえ、戦後社会教育行政は、事実上ゼロからの出発であった。
二十四年、行政の枠組みを示す社会教育法が制定され、次いで図書館法(昭25)、博物館法(昭26)、青年学級振興法(昭28)が相次いで制定された。この中でとくに公民館は戦後社会教育の拠点として位置づけられ急速な展開をみたが、このような中で札幌市の社会教育は独自の歩みを示した。
札幌市の公民館については、二十一年に設置された公民館設置協議会、公民館運営協議会などの議論を経て、二十三年二月十日(開館式は二月二十日)に公会堂豊平館が市民の熱望と期待を背景にして中央公民館として開館したが、二十四年九月に市民会館への改組にともなって中央公民館は廃止された。「市内各地域で市民からなる公益法人により既設物の利用等による小規模な公民館」(札幌市公報 第五四三号 昭24)という札幌市の公民館構想によるものであり、以後、札幌市では公民館不在となった。その後、手稲町及び豊平町との町村合併によって後述の月寒公民館と手稲公民館が設置された。このように札幌市の公民館活動はごく一部に限られ、大半の地域は公民館不在のままであった。このため専任職員としての社会教育主事(あるいは公民館主事)を欠く公民館類似施設が社会教育の系統的展開に十全な役割を果たしえなかったことは否めない。
このこととかかわり、公民館にかわって地域ごとに設置された地域集会施設が注目される。二十年代後半期以降、既設の出張所に加えて併設された地区集会所については、その建設にあたって地区住民の醵金を募り、設置後は住民による運営委員会などによって住民が主体的に管理・運営することによって「地区公民館として、地区市民の自主的な公民館運動が展開される」(広報 昭25・11・1)ことを市は期待していた。このような市の公民館観については評価が分かれるといえるが、前述の札幌市の地域性と財政事情を反映していたといえる。と同時に、この地区集会所が地域によっては地区公民館と遜色のない活動を行って来たことも確かである。