[解説]

浅間焼覚帳
小諸市古文書調査室 斉藤洋一

 本書「浅間焼覚帳」は、小諸市立火山博物館(現小諸市立郷土博物館)の蔵書である。表紙には「天明三年五月廿四日」と記されているが、本文を見ると、天明三年(一七八三)から天明七年までのことが記されている。したがって本書は、天明三年から同七年頃にかけて執筆されたものではないかと考えられる。
 本書の著者は、表紙に「小諸与良町 与良与兵衛」と記されていることから、与良町に住んでいた与良兵衛と分かるが、この人がどのような人であるかは、今のところ分からない。ちなみに与良町は、市町本町とともに、小諸三町と称される、小諸藩の城下町を構成する町である。また、『与良区誌』(一九六九年)によれば、著者と同姓同名の与良与兵衛という人が明治二四年に小諸町の町会議員になっている。本書の著者とこの人との関係も分からないが、ゆかりの人ではないかと推測される。
 次に、本書の内容であるが、天明三年七月の浅間山の大噴火とそれにまつわること、その後の不作による穀物などの値段の高騰のこと、そのため生じた一〇月の上信騒動のことなどが、小諸を中心に記されている。このほか、天明七年までに諸国で起こった大きな事件、たとえば天明七年の江戸の打ちこわしなどや、歴代の小諸藩主(牧野氏)・家老などのことなども記されている。
 このうち、穀物値段などの変遷の様子が非常にくわしく記されているのが、本書の特徴といえよう。おそらく、これほどくわしい史料はあまりないのではないかと思われる。また、当然といえば当然だが、小諸のことがくわしく記されていることも、本書の特徴といえよう。
 ただ、本書には、修正箇所や筆が途中で止まっているところが各所にあり、意味の取りにくいところが多い。また、誤字・誤認ではないかと思われる箇所も散見される。一例を挙げると、末尾近くに「にごり(濁り)川らんかん橋」の工事のことが記されているが、天明五年に「八満宿七兵衛」が願い出たと記されていることから、この川は濁り川ではなく蛇堀川で、橋は蛇堀橋(与良大橋・与良町橋とも呼ばれる)ではないかと考えられる。というのは、『小諸市誌 歴史篇(三)近世編』(一九九一年)によれば、天明五年に「八幡宿」の「依田七郎兵衛」が中心となって「与良大橋」が架橋されているからである(八満村〈はちまんむら〉と八幡宿〈やわたじゅく〉は、ともに小諸藩領であるが別)。著者が与良町の住人だとすると、江戸から北国街道をやってきて蛇堀橋を渡ると与良町になる、その入口の橋が架けられた川の名前を書き誤るだろうかとも思われるが、藩主や家老以下の藩役人が見分に来たとする記事からも、これは蛇堀橋のことではないかと考えられる。ちなみに、藩役人の名前も一部に誤記ではないかと思われるものがある。
 もう一つだけ指摘しておくと、一〇月の上信騒動の記事中に「中町はたり又兵衛」とあるが、『天明雑変記』(萩原進編『浅間山天明噴火史料集成 Ⅳ 記録偏(三)』一九九三年)に「市町住居此辺渡り組の頭と言亦兵衛」とあるので、「はたり」は「渡り」のことではないかと思われる。このように本書には、誤記・誤認と思われる箇所があるので、気づいたところは注記しておいたが、見落としがあるかもしれないことを断っておきたい。