絵の解説

2-7
 久米路橋の名称で長野県歌「信濃の国」にも登場する、水内橋です。名橋として知られていましたが、岩倉山虚空蔵山)が崩落して犀川を堰き止めたことにより水没し、流失してしまいました。ここには地震前の、本来の水内橋が描かれています。
2-10
 これも善光寺近郊の名勝として知られるブランド(ぶらん堂)薬師です。ブランドとはぶらんこのことで、乗ると揺れることからこの名称があると言われています。この堂も善光寺地震により、土砂とともに崩落してしまいました。絵には深い谷に渡された狭い橋の上を這って渡る2人の人物が描かれていますが、原本では一人だけです。
2-12
「俗言新地獄ノ略図」
 善光寺地震により、ブランド薬師の近くでは天然ガスが噴き出し、火が付いて燃え上がりました。人々はこれを新地獄と呼びました。絵にはそれを利用した五右衛門風呂や、火にかけてあるやかんが描かれています。それを見物している日傘をさして子供を連れた女性たちがいます。ここは現在の浅川ループ橋付近です。ここでは触れていませんが、天然ガスとともに石油(原油)も湧出して、後には大規模に採掘されました。
2-27
 松代藩が川中島古戦場の八幡原で炊き出しをしているところです。2-29の文章によれば、幕を張り回して三つ道具(突棒・刺股・袖搦)などを立てた会所を設け、毎日3回、大握り飯を3個ずつ配給したということです。原本と信濃教育会本が広範囲を描写して炊き出しの具体的な様子が見えないのに対して、国立国会図書館本と真田宝物館本は八幡原だけを拡大した構図になっています。
 右上には、「松代大守様御仁徳、御救として御用焚出会所三ヶ所に成る。所謂小松原・川田・八幡ヶ原なり。数日の間民百姓ども御救を戴き、急迫の飢を凌ぎ、おのれが仮小屋に歓び帰る図。今爰に図を出す所は、是則川中島古戦塲に名だゝる八幡ヶ原の社地なり。十分の一を顕す。遠見残筆の村々多しといへども省畧すと知べし」と、書いてあります。
 八幡原の周囲には川中島合戦の首塚が描かれています。左上の千曲川には寺尾の渡し(現在の松代大橋付近)があり、上流には赤坂の渡しも見えます。対岸の山際には松代城下があり、松代城が描かれています。この穏やかな平野も、4月13日には大洪水に見舞われることになります。
2-33
 岩倉山虚空蔵山)が崩壊し犀川を堰き止めてできた天然ダムは、4
月13日午後に決壊しました。その際はのろしの花火を打ち上げて緊急事態を松代城に知らせることになっていたので、さっそく花火が打ち上げられました。民百姓に知らせるというよりも、城に知らせるためであったことは、2-31の文中からもうかがえますし、何よりもこの絵が示しています。のろしの花火は、決壊場所と思われる山中だけでなく平野部でも打ち上げられていますから、山中ののろしを見て中継ののろしを打ち上げる手はずになっていたのでしょう。右側の上段に文字を書くスペースが用意されていますが、これは原本にはありません。
2-44
「北越今町之街、并(ならびに)善光寺浜一見之略図」
 北越(越後)の今町は、現在の新潟県上越市の直江津です。「己レ十歳ナリシ夏、祖父に連レラレテ此浜ニ至リ、一見シタル空覚ヲ以テコヽニ図ヲ出スナレバ、其違フ事ヲ免シ給ヘ」とありますから、10歳の時に祖父に連れられて行った時の、うろ覚えの記憶をたよりに描いたことが分かります。2-39と2-42で世尊院釈迦堂の釈迦如来が今町西方の善光寺浜の海中から出現されたことを記した参考として、この絵を描いています。善光寺浜にある善光寺は、浜善光寺と通称される十念寺(上越市五智)で、善光寺大本願の別院です。浜善光寺のある善光寺村は、大本願に年貢の塩を納めていました。浜で働く人々は、塩田で塩を作っているのです。
2-48
「播州須广之浦海中ヨリ石像ノ薬師如来出現之畧図」
 善光寺最勝院の本尊石造薬師如来が、播州須磨(神戸市須磨区)の海中から出現されたこと(2-46)を絵にしています。「此国ニ未ダ行テ見ズ、唯其趣ヲ画ニ出スナレバ、其違ヘル事ヲ不可咎(とがむべからず)」と書いてあるように、須磨に行ったことのない善左衛門が想像して描いた須磨の浦です。左の煙を上げているのは塩を作る釜で、女は塩水を運んでいるのです。須磨は、「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ」(在原行平)などと詠まれた歌枕です。善左衛門はこうした歌を念頭に、須磨の浦の塩づくりを描いているのでしょう。善左衛門の教養がうかがえます。
2-51
 この絵については、2-50に説明があります。善光寺地震の4年も前のことなのですが、こうした不思議な現象は後で思い起こすと地震の予兆であったのではないかと思えるのでしょう。「朝日山」は善光寺門前町の西側にそびえる山で、現在は「旭山」と表記しています。
2-52
 この説明も下段にあります。これは地震から1か月余たった時期で、しかも東方です。2-51と2-52は対になっているとも言えるでしょう。
2-57
犀川之湛水一時ニ押破リ、土砂・磐石・樹木民家ト共ニ押出シ、水煙リノ有様、川中嶋・小松原・岡田山辺ニ見ル」
 岩倉山虚空蔵山)の崩落が犀川を堰き止めてできた天然ダムは、4月13日の午後に決壊し、川中島平に押し出しました。絵では左の山の間から太い滝のような流れが平野部に注いでいます。水は大波のようになって、平野部の集落を飲み込んでいきます。右の「丹波嶋駅」の北側は干上がった犀川があって、綱を渡した丹波島の渡しがあります。この辺りも間もなく水に飲み込まれてしまうでしょう。1対の石灯籠は原本にも描かれていますが、川原の中の柱やロープは信濃教育会本が独自に付け加えたもので、原本にはありません。右上の善光寺の門前には焼け野原が広がっていますが、標高が高いのでそちらまで洪水が及ぶことはありませんでした。左上ののこぎり状の山は、安茂里小市の白土を採掘する山で、現在もこの光景を見ることができます。右側の青い川は裾花川です。
2-58
犀川洪水一時ニ押出シ、三災ノ苦難ニ逼(せま)リ、コヽニ命ヲ失フノ図」
 原本は「犀川洪水」ではなく、「犀川嵩水」になっています。三災とは地震・水害・火災で、2-60にも「三災一時の大難」という語句があります。3つの災害を同時に受ける大難ということで、描かれた男は燃える屋根の上に乗ったまま流されていきます。右上には木材につかまったまま流される女がいます。左の桶の脇には人間の足だけが見えます。この足は原本にはなく、信濃教育会本が独自に加えたものです。なお国立国会図書館本と真田宝物館本には、右側の流される女の姿がありません。左上には松代城が見えます。大洪水千曲川を乗り越えて、松代城下にまで浸入しました。
2-63、2-64
 3月24日の地震発生以来、野中に仮堂を造って避難していた善光寺の本尊や前立本尊は、5月16日にようやく大勧進万善堂の仮堂に遷座することになりました。この絵はその行列です。行列の順序は画中にも文字で示されていますが、2-61と2-62に詳しく載っています。それを元に、行列を見ていくことにします。2-64の背後の本城は現在の健御名方富命彦神別神社(水内大社・県社)で、当時は毘沙門堂がありました。その西側を南に向かって行列が進んでいるのです。人々は座って、整然と行列を見送っています。背後の茶屋には、「即席御料理」「かん酒」「にしめ」「でんがく」などの文字があります。
(2-63右)行列の先頭は「御山内小屋店行事」の海老屋商兵衛ですが、描かれていません。現代の商工会議所会頭のような立場の人です。続く4人の同心から描かれています。その後に2人の高張がいます。御朱印(幕府の朱印状)の前には裃姿の被官衆がいます。御朱印を担ぐのは仲間(ちゅうげん)たちです。その後にまた2人の被官が続きます。
(2-63左)大勧進寺侍の上田丹下、供の2人の若党、後ろは鑓持(やりもち)と草履取です。同じく寺侍久保田内記と供回り4人、(続く6人が描かれていません)侍2人、大勧進別当山海、近習4人、手燭衆徒2人と続きます。
(2-64右)先頭は日光山御院代の法成院と御手伝の南勝院ですが、一人しか描かれていません。その後に前立本尊の御輿と御印文の御輿が続きます。その後のご本尊の御輿は一山の僧たちが担いでいます。上には天蓋が掲げられています。その後に若党や侍衆が続きます。
(2-64左)右に続く若党の後には、大勧進寺侍の今井中三が前の寺侍と同様に4人を従えています。その後の寺侍中野治兵衛と山極又兵衛も同様です。最後に裃の町年寄2人・医者などが続きます。
2-67
 大勧進万善堂の仮堂に一旦安置されていた本尊は、10月18日の昼前、7か月ぶりに本堂に帰りました。これはその日、山門前に集まった大群衆です。100歳余の老人も、これほどの賑わいは見たことがないと言うほどでした。
2-71
 ご本尊を大勧進から本堂にお移しする行列です。2-69によれば、この行列の順序は次の通りです。
先箱2人、高張2人、被官8人、尊勝院(洒水)、威徳院(手香炉)、被官2人、近習4人、大勧進別当山海、近習4、爪折傘、草履取、御杖、僧、手燭僧2人、御本尊御輿、ここまで描かれています。以下は見えませんが、御印文の御輿があり、寺侍たちが後に続きます。
 絵には尊勝院と威徳院の後の曲がり角に2人の僧が描かれていますが、この2人は原本にはありません。沿道の人々は、やはり座っています。本堂の屋根に横線が見えますが、これは現在のように檜皮葺(ひわだぶき)ではなくて、栩葺(とちぶき)(板葺)だったからです。左の経蔵の脇の鳥居は、この奥に秋葉社があるためです。明治以降は横沢町の八幡社に合祀されています。
2-74
 2-72に「犀川の平水と村山村の高低を見競図畧」とあります。それによれば、昨年(弘化4年)の夏に村山村(長野市篠ノ井山布施)の荒神堂(三宝寺)に参詣した時、裏の少し高い所にある松の梢にごみが沢山ひっかかっていたので、大洪水の時はここまで水が来たのだと知って驚き、図中に赤く印を付けたというのです。このあたりは両側が山で、4月13日の犀川の大洪水では数十メートルもの高さの水が一気に流れ下ったのです。絵に描かれたのどかな田園や川舟からは想像もできない、恐ろしいできごとだったのです。