[現代訳]

 
弘化4年(1847)春3月24日、信州の大地震で山が崩れて川をせき止め、水をたたえている図
 
○『三代実録』(巻第50)に次のように書いてあります。「光孝天皇の仁和3年(887)7月30日、午後4時ころ大地震があって、数刻がたっても余震が止まない。天皇はお住まいの仁寿殿を出て紫宸殿の南庭に避難され、大蔵省に命じて7丈(2.7メートル)の仮屋を建てさせ、御在所とした。諸官庁の建物や都の家々が倒壊し、圧死した人々が多数ある。あるいは失神して死んだ人もある。午後10時ころにまた3度余震があった。五畿七道(日本中)でこの日大地震があり、役所の建物が多数損害を受け、津波が陸に押し寄せて溺死した人は数えきれない」
(注)『日本三代実録』(901年成立)に見える仁和地震の記録。南海トラフ沿いの巨大地震とされる。
 
○『扶桑略記』(第22)に次のように書いてあります。「(上略)この日信濃国では大山が崩れ、大河が洪水を起こして、6郡で家やかまどがすべて流失した。牛馬や男女の流死者が山のようにあった」
(注)平安時代後期の歴史書『扶桑略記』に見える仁和地震の記事です。
 
 私(原昌言)は次のように考えます。これは弘化4年(1847)から961年前のことです。仁和3年の大地震では信濃の6郡がことごとく流失したということです。歴史書にはその地名が載っていません。わずかに1000年たっただけですが、伝説としても伝わっていません。はっきりと証明はできませんが、6郡を貫通する大河といえば犀川千曲川だけでしょう。今回の大災害でも甚大な被害を受けたのは水内郡と更級郡で、上流では筑摩郡と安曇郡を浸し、下流では埴科郡と高井郡に大洪水をもたらしました。水害はほぼ6郡に及んでおり、人や家畜に被害が出たのは仁和の災害と同様です。今世間では、昔から今に至るまでなかった大災害だと思っています。私には願いがあります。現地に何度も足を運んで調べた後に、この図を製作してそっと家の蔵に収め、いささかでも後世の戒めに役立てたいのです。急なことで詳しいところと大まかなところがあるのは、ご覧の通りです。 信州 平(原)昌言記す
 
○古い記録に次のように書いてあります。「推古天皇15年、大仁(六位)の鳥臣(とりのおみ)を東国に派遣する。鳥臣は箕野(美濃)を通り、科野(信濃)に至って水内の海を治め、上毛(上野)に至って利根の海を治めた。また割戸の滝磐を割って雁越に入り、栗柄の道と上邑の道を開いた」
 考えるに、水内郡水内村(長野市信州新町水内)は水内郡の発祥の地で、上代に水内の海と言われたのも、この辺りを言ったものでしょうか。今も北の郡には大沼がたくさんあります。これはそのなごりでしょう。この地は北に戸隠の険しい山々があり、南には犀川が流れ、西に境川があり、東に裾花川があって、いわば島のようになっています。水内橋の技巧がなければ、知られていないでしょう。思うに、水内の地名はこれに由来しているのでしょう。[『《アイ》嚢鈔』の善光寺の由来の条には、「信濃は標高の高い地で、ことにこの郡は高いので水落(水内)の郡という」と書いてありますが、信濃10郡はいずれも標高が高く、天下の上流です。どうしてこの郡のことを標高が高いと言うのか分かりません]
 
水内の曲橋[また久米路の橋とも言います。『歌枕名寄』では信濃の国の橋としています。また「来目の岩橋」などと詠む橋は大和の葛城にあるといいます。『拾遺和歌集』に「埋木は中むしばむといふめれば久米路の橋は心して行け」よみ人知らず]
○『日本書紀』に次のように書いてあります。「推古天皇20年、百済国から渡来した者がいる。その顔も体も白い斑である。長い橋を巧みに架けるので、当時の人々はその人を路子工と呼び、また芝耆麻呂と呼んだ」
○古い記録に次のように書いてあります。「推古天皇の20年、百済国の帰化人(中略)巧みに長橋を架けた。諸国に派遣して、三河国八脛長橋・水内曲橋・木襲梯(きそのかけはし)・遠江国浜名橋・会津闇川橋・兜岩猿橋など、その他180橋を造らせた。」 これらの説の出典が明らかでないことは先輩がすでに考察しているので、今さら繰り返す必要はありません。ただその1つ2つを抄出してここに掲載しています。
 この地は両側の山がたいそう狭く迫っているので、犀川の水が激しく流れ下っています。その北岸の中腹に穴を開けて、西から東へ5丈4尺(16.2メートル)行き、南に曲げて大橋を渡しています。その長さは10丈5尺(31.3メートル)で、幅は1丈4尺(4.2メートル)あります。欄干の高さは3尺(90センチメートル)、橋と水面の距離は普段でおよそ15丈(45メートル)あって、青黒い水がみなぎっている様子は恐ろしげです。「心して行け」と詠んだ昔と、今も変わっていません。
 ところが今回の災害で、3月下旬にはたまった水がすでに橋の上数丈(1丈は約3メートル)に達し、橋げたは逆流に乗って浮かび流れて、穂刈村(長野市信州新町里穂刈)の水面に漂いました。4月13日の決壊による大洪水に流されて、どこへ行ったか分かりません。[下流の奥の郡に漂着した木材は直径3尺(90センチメートル)余、長さ10丈(30メートル)余。これがその橋の部材でしょうか] このごろ歩いてその橋の跡に行き、土地の人に聞いたところ、「両岸の岩がことごとく崩れ落ちていますが、川はなおも数丈の水をたたえています。再び橋を架ける手段はほとんどありません」とのことでした。ああ、大被害を受けた大昔からの名所は、ここで消滅してしまうのでしょうか。何と惜しいことではないでしょうか。
 
穂高神社[『延喜式』神名帳に載る名神大社。安曇郡穂高村に鎮座]
○『古事記』に、「綿津見の神は阿雲(あずみ)の連(むらじ)等の先祖」と書いてあります。
○『新撰姓氏録』には、「安曇の宿祢(すくね)は、海神の綿積豊玉彦の神の子である穂高見の命(みこと)の子孫」と書いてあります。
 穂高神社の神は、この地が未開であった時、治水をされた神でいらっしゃるので、そのご功績を謹んで仰ぎましょう。
 
 いわゆる川中島4郡とは、埴科郡・更級郡・水内郡・高井郡のことです。『源平盛衰記』『吾妻鏡』などにある「信濃の奥郡」のことで、今も土地の言葉では「奥の郡」と言います。