[解説]

弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図
長野郷土史研究会 小林一郎

 次の項目は「弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図」の解説と共通ですので、そちらをを参照してください。
 
善光寺地震の被災図
原昌言による出版
観光案内図として
図中の文
 
上段の文章
 弘化4年(1847)3月24日の善光寺地震の発生から、4月13日の大洪水を経て10月に至るまでの、経過をまとめています。その概要は次の通りです。
(大地震発生)
 大地震によって虚空蔵山が崩落し、犀川をせき止めたこと、澣花川(裾花川)などの支流も同様であったこと、善光寺新町等で火災が発生したことなどを記しています。ここに記された被害の状況は、「弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図」に描かれています。
(4月12日まで)
 余震が続く中、暴風大雨などもあって、人々の心を不安にしました。戸尻川(土尻川)は流れるようになりましたが、犀川のせき止め湖はいよいよ大きくなってきました。
(大洪水
 4月13日の夕方、原昌言は西条山(妻女山)で善光寺平に流れ込む激流を目撃しました。それには3つの流れがありました。翌日見ると、陰徳沖(延徳沖)から木島平方面まで、一面に水が続いていました。
(その後)
 澣花川(裾花川)でも、湛水が崩壊して洪水になりました。天候不順の中、余震は10月末になっても続いています。
(まとめ)
 鴨長明が『方丈記』に書いている通りで、地震ほど恐ろしいものはありません。
 
描かれた大洪水
 4月13日の大洪水は、濃淡の青2色で示されています。濃い青は深く浸水した場所でしょう。上段の文章によれば、川中島平(善光寺平)への出口に当たる真神山のふもとの小市(長野市安茂里)では、水かさが6丈6尺4寸(約20メートル)もあったということです。その周辺は濃い青が広がっています。また「シノ井川」(篠井川)沿いの「陰徳沖」(延徳沖)(中野市)も、千曲川から入り込んで濃い青が塗られています。この辺りは延徳たんぼと呼ばれる水田地帯で、洪水の常襲地として知られています。西条山(妻女山)から見ていた原昌言によれば、洪水は3流となって川中島平に広がりました。この図では、もっと複雑な流路が濃い青で描かれています。
 川中島平での洪水の範囲は、西(図の上部)は川が境になっています。これは当時は天井川であった岡田川です。岡田川が千曲川に合流する横田付近では、ややさかのぼった地点まで千曲川が氾濫しています。これは上段の文中に「水上横田・篠井辺ニ沂(さかのぼ)ル」(沂は正しくは泝)とあることに対応しています。
 激流は千曲川を越えて松代城下にまで達しました。上段に「於是みな海津(松代)に湊(あつま)る」とあるのは、西条山(妻女山)から見ると、幾筋にも分かれた激流はみな松代向かっているように見えたのでしょう。
 こうした南方への洪水の広がりに対して、犀川の北側の浸水は栗田・南俣付近まででした。これは裾花川の扇状地であるためで、洪水はその裾野をめぐるようにして東(図の下方向)から北(右方向)に広がりました。
 東方は川田・綿内(長野市若穂)から福島・相之島(須坂市)など千曲川右岸に浸水しましたが、やはり扇状地のため大きくは広がりませんでした。これに対して「陰徳沖」(延徳沖)(中野市)は千曲川の旧流路の水田地帯で、深く浸水しました。