[解説]

浅間山噴火の被害記
小諸市古文書調査室 斎藤洋一

 本書「浅間山噴火の被害記」は、小諸市立図書館の蔵書である(分類番号N2095-1-4)。痛みが激しいことから、厚紙で新しい表紙がつけられている。本書の表題「浅間山噴火の被害記」は、その新しい表紙に貼られた題箋に書かれたものなので、新しい表紙をつけたさいに付与されたものではないかと推測される。元々の表紙の題箋は失われており、元々の題が何であったかはわからない。
 表紙の裏には、次のように記されている。
  「 天明三年
       卯七月吉日
      最首氏
   六軒丁
     伊勢屋安左衛門 」
 また、本文末尾にも「天明三癸卯年七月廿七日抜レ書置申候」と記されている。このことから、この記事は最首氏によって、浅間山の大噴火からまもない天明三年(一七八三)七月二七日に記された(写された)ものと考えられる。その最首氏がどのような人であるか、また最首氏と、「伊勢屋安左衛門」とがどのような関係にあるか、いやそもそも「六軒丁」がどこで、伊勢屋安左衛門がどのような人であるかも、現時点ではわからない。
 さて、本書には「浅間山噴火の被害記」という題がつけられているが、本書に収録されている記事は、これのみではない。「下総国相馬郡早(アヤ)尾村百姓親の敵討之事」という題とその記事、「信州水谷百姓徳左衛門長命并ニ子三人産ム事」という題とその記事も写し留められている。そして、前者の末尾には「卯十月十一日写之置」、後者の末尾には「天明三癸卯霜月八日に是ヲ写ス」と記されているので、三つの記事はすべて天明三年中に写されたものになる。最首氏が、関心を抱いた記事を順次に写し留めたものと考えられる。なお、このほかに「下野国(上野国)群馬郡高崎村親高校之事」という題も記されているが、これは題と小見出しが記されているのみで内容は記されていない。写す作業を中途で止めたのであろうか。
 
 ということで、本書には三つの記事が記されて(写されて)いるが、その一つがここに紹介した天明三年の浅間山噴火に関する記事である。七月六日・七日・八日の大噴火のようす、吾妻川から利根川にいたる沿岸村々の被害状況などが、おもに記されている。
 最首氏が何から記したか(写したか)はわからない。筆者が知るかぎりで、萩原進編『浅間山天明噴火集成 Ⅳ 記録偏(三)』(平成五年八月、群馬県文化事業振興会)に収録されている「浅間山大変略記」と「一話一言」に、本書と似た記述が、わずかだがある。前者の「信州浅間山 此度之次第并ツナミ」という記述(二八六~二八八頁)と、後者の上州群馬郡南牧村・北牧村・川島村の被害状況吾妻山山抜けの記述(三一二頁)である。
 前者「浅間山大変略記」では、「葭(鎌)原村」をはじめ、村々の被害状況を記しているが、村名の誤記が目立つ。編者である萩原進はこの箇所について、「これは全くデマや瓦版を写したもので信憑性の低いもの」と指摘している。本書の村名もこれと同様で、誤記が目立つ。萩原進が指摘するように、そもそも原本が信頼できないものだったと思われる。
また、「一話一言」では南牧村・北牧村・川島村と記しているところを、本書では南牧村・小牧村・川辺村と記している。南牧村・北牧村・川島村は、吾妻川を挟んで近くの村なので、本書の小牧村・川辺村は、北牧村・川島村の誤記かと思われる。「一話一言」も何かから写したと思われるが、本書はそれよりさらに不正確な写ということになろう。なお、この三か村の近くにあると記されている「吾妻山」は、現群馬県中之条町の吾嬬山(かづまさん)のことであろうか。そうだとすれば、右の三か村とそれほど近くはない。ただ、群馬県内でほかに吾妻山と呼ばれているのは、現桐生市市街地北西の吾妻山(あづまやま)、現吾嬬村の吾妻山(一般的には四阿山(あずまやさん)と呼ばれている)ぐらいしか思い浮かばないが、いずれも右の三か村とは相当離れている。
 もう一か所指摘しておくと、「沓井宿、信州にて木曽街道抔」という記述の「沓井宿」である。信州の木曽海道(中山道)には、軽井沢宿の隣に「沓掛宿」がある。そして、軽井沢宿は大きな被害を受けたが、隣の沓掛宿ではそれほど大きな被害は受けなかった。それより先の宿場になれば、さらに被害は少なかった。「沓井宿」は「沓掛宿」の誤記ではないかと思われる。
 このように本書には、誤記、あるいは誤記かと思われるものが目立つということを指摘しておきたい。
 また、本書が伝える内容にも疑問が多いことも指摘しておきたい。たとえば「蒲(鎌)原村」などの被害高である。鎌原村では、「老人二人・老母一人・子供一人・若者廿六人」しか残らなかったと記されているが、多くの史料は九三人が生き残ったとしている。ちなみに、右の「浅間山大変略記」も「葭(鎌)原村」の「残り候者弐人、老人壱人、老母、子供壱人、若男女弐拾六人」としていて、本書の記述に類似している。このことから、両者は共通の原本から写したと推測されるが、その原本が誤っていたと考えられる。
もう一例あげておくと、本書には「川平村・草津村」が「湯治場」で、「川岸」にあったが、「高き所」にあったので、それほど被害を受けなかったと記されている。しかし、このうち「川平村」が「川原湯村」のことだとすれば、川原湯村は相当の被害を受けている。また、草津村は湯治場として有名だが、吾妻川からは相当離れていて、「川岸」ということはできない。したがって原本の著者は、あまり現地のことを知らない人ではないかと推測される。その写であるから、こうした誤りがあることにも注意する必要がある。
天明三年の浅間山噴火は、噴火の規模が大きく、その被害も広い範囲にわたったから、当時の人々を驚かせ、多くの記録を残させることになった。しかし、被害の全貌を正確に把握することは、当時においてはむずかしかったと見られる。おそらく、さまざまな不確実な情報も飛び交ったであろう。したがって、原本そのものにそもそも不正確なものがあったと思われる。それを写したもの、さらにそれを写したものになると、写すさいに誤ったこともあったと思われるので、誤りはさらに増えたと見られる。本書のような記録を読むさいには、それを念頭において、なるべくほかの記録と比較検討しながら読む必要がある。そうすることで、被害の全貌把握に近づくことができると思われる。