[現代訳]

「寛保二壬戌年金井村
戌出水万覚留帳
九月吉月  名主清右衛門
 
一 組頭百姓代流死改役被仰付
 八月廿日ニ組頭藤四郎・万右衛門・百姓代惣助
一 八月廿五日ニ江戸御家老
  佐藤利左衛門様
 御目付
  鈴木源太左衛門様
 国御奉行
  川合新平様
 御代官
  内山千右衛門様
 同
  楢原丈右衛門様
 これらの方々が検分(被害の調査)のために加沢久保より入り、金井村、加沢田、祢津に向かった。
新屋敷の建築をお願いしたところ、8月29日に建設予定地を視察して下さり、了解していただいた。
9月3日に夫食代金5両をいただいた。
10月23日御代官浅岡彦四郎様が検分にこられ、私たちも呼び出され、村のことについて祢津で吟味を受けた。
   覚
 村高257石4斗5升1合8夕
   松本采女正知行所
 人別300人の内
一 飢人数113人
  7歳以下は除くと男62人、女51人
 信州小縣郡松平采女正知行所金井村は、8月の洪水の時、北山などの山が崩れ土石流が発生し、百姓の家、家財、食糧などが流され、飢人が出たが、報告の通りかと質問を受けた。
報告の通りで間違いなく、そのほかには飢人は一人もいなかったと答えた。
 一 53軒    流家
   240人
 一 9軒   倒壊した家
   29人
 一 3軒   被害を免れた家
   20人
     11人は書き落とし
 一 19疋の馬のうち14疋が流れ死んだ。
 村高の内、121石4斗9升9合が永荒(長期にわたって復旧できない土地)
 18石9斗5升2合7夕が当荒(数年で復旧できる土地)
 右御検分之節書上
 一 8月27日に田畑流帳を差上げた。
 一 11月5日に地頭様に提出した書類
     覚
 一 村高右の通り
    内流右の通、永荒当荒ともに
 一 流失家数  54軒
  人別300人の内
 一 流死の者103人の内
   男62人
   女51人
 馬19疋の内
 一 流死馬   14疋
 御地頭様より
 一 御拝料物  籾子15俵
 一 同じく   金5両
 一 同じく   材木300本
 
 今後、異議は一切申し上げません。
               名主 印
 寛保2年11月5日
           組頭印
           百姓代印
  御奉行所
 戌11月23日
 一 材木は1人につき5本の割合でお役人立ち会いで御林から伐りだす。
 
 (中略)
 一 8月1日夜中におびただしく雨が降り、朝5ツ時(8時頃)に大洪水となった。水は村を押し流した。私の家の者は路地の大きさ2尺5寸(約80㎝)ほどのの木に登り、清右衛門夫婦と男子3人女子1人の計6人が助かった。下女1人もこの木に上った。その他の下女は宿ヘ出かけており、下男4人も残らず朝の草刈りに出かけていたが、ちりぢりに逃げた。しかし、1人は無惨なことに流死した。馬を3疋持っていたが、2疋は加沢村まで流され、4日に行方が判ったので受取り、片羽村の縁故の家に預け置いた。
一 私たち生き残った村人105名は残らず誰彼の隔てなく助け合いながら、水が引くと直ちに1日昼九ツ時(正午)より祢津の長命寺に避難し、3日まで逗留、それから各自身寄りを頼って避難していったので、彼らを見送り、私たち一家は出場新田の名主徳右衛門の所に一間を借りて引越した。
一 新しい屋敷を建てる場所を代官にお願いし、6日にまず小屋を建てる場所を決め、私が最初に小屋を立て、普請にかかった。8月11日に小屋をつくりはじめ、それから村人も段々小屋をつくるようになった。13日に出場より一家で小屋に移り、本屋の普請をはじめ、12月2日に新居に移った。諏訪大工を頼んだ。
  (下略)