[解説]

割田家文書
史料1 史料2 史料3 史料4 史料5
山田家資料館 寺島正友

 上水内郡笠倉村は、千曲川の河道が立ヶ花から急に狭くなるその先の左岸に位置する。小高い山や丘陵が両側から迫って崖を成している所を、千曲川は蛇行して流れている。そのため、上流で大雨になると流れを堰き止め、いっきに千曲川の水量が増すことになった。家居は千曲川沿いに連なっており、田畑も千曲川近くのくぼ地に位置しているため、度重なる千曲川の水害に苦しめられてきた。
 笠倉村における戌の満水の記録は、次の五点が地元に残されている。
 ・(寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事
 ・寛保二年八月 乍恐以書付奉願候事
 ・寛保二年十二月 乍恐以書付奉願候御事
 ・寛保三年三月 乍恐書付以奉願候御事
 ・寛保三年六月廿一日 覚
 これらの史料を時系列で読むと、戌の満水被害状況や藩・村の対応を伺い知ることができる。
 史料1は、戌の満水直後に藩に出されたものである。
 これによると、笠倉村の被害高は一八四石余であった。村高は六四〇石ほどなので、約三割が被害を受けたことになる。
 田畑は一丈余も水没した。千曲川から田畑までは二丈ほどの高低差があるので、合わせて三丈、一〇㍍ほど千曲川の水位が増したことになる。
 家居の被害は、流れ家七軒、潰れ家五軒の計一二軒であった。当時の家数は三〇軒ほどなので約四割になる。ここには浸水した家数が書かれていないが、おそらく笠倉村のほとんどの家が被害を受けたと考えられる。
 さらに、道や用水、田畑や御蔵籾等に甚大な被害を受けたが、幸いにも、死者の記録は残っていない。おそらく、事前に神社などの高台へ逃げて無事だったと思われる。
 村役人は、大満水の五日後に、まだ被害状況は完全に把握できていない段階で、飯山藩の支配代官へ被害状況を報告している。
 史料2は、戌の満水から一か月以内に出された願書である。
 史料1で示すようにひどい被害だったため、自分の力だけでは修復できず、他の人々の手伝いにより修復に取り組んでいた。
 ところが、そこへ飯山藩から通達がきたのある。その内容は、飯山城下町周辺の千曲川堤防が壊れたので、そこを修復するための人足を出せということであった。
 現在の飯山駅周辺まで水没するありさまで、城下町近くの堤防は寸断されていた。飯山藩にとっては、城の周りの修復をできるだけ早く行う必要があったのである。
 しかし、飯山藩からの助けを今か今かと待っていた笠倉村の人々にとって、とんでもない通達であった。そこでただちに、他の村とは被害状況が違うので、御慈悲をもって人足を少なくしてくれるように嘆願したのである。
 なお、その結果どうなったかは定かでない。
 史料3は、十二月に出された御普請願書である。
 八月の満水以降、被害にあった場所を修復してきたが、この時点でも水害で使用できなくなった田畑が多く残っていた。そこで、被害を受けた田畑などの場所を示した村絵図を提出し、調査した上での藩による修復工事を嘆願した。しかし、残念ながらこの時点では御普請は認められなかった。
 史料4は、次の年の三月に再び出された御普請願書である。
 田畑の作付けがせまる三月、改めて修復の必要な場所を、村道、用水路、田、排水路と具体的に記して、調査した上での藩による修復工事を再度嘆願した。
 千曲川の堤防の修復が示されていないが、まずは生活・生産活動に関わる部分の修復を願ったと思われる。
 その結果は史料5に記された通りである。
 史料5は、御普請完成の証文である。
 村人の粘り強い取り組みにより、千曲川堤防の藩による修復工事が認められ、六月二十一日以前に完成することができた。笠倉村役人は、完成を確認した上で証文を提出した。
 以上のような藩と村の対応によって、堤防などの一部修復工事はできたものの、以前のような村の姿にもどすには、さらに長い年月を要したと考えられる。