1.犀川通船の盛衰

(1)宿場と中馬の反発
 松本から北国脇往還(善光寺街道)を経由して善光寺まで荷物を運ぶには、「岡田村・刈谷原村・会田村・青柳村・麻績村・稲荷山村・丹波島村の七か村が中馬稼ぎの村であった。…そうしたなかで、犀川を利用しての通船計画は、それまでの流通体系を大きく覆すものであった。」(「信濃の青竜 犀川」P264)
 犀川通船は天保3年(1832年)に松本の白板から信州新町までの14里間で運行が始ったが、最初の通船願いが元文4年(1739)に出されてから94年も経っていました。それは、通船が実現すれば、宿場が衰退する、牛馬の駄賃稼ぎが無くなる、堰の取水に問題が生じる、鮭漁ができないなどの反対が多かったからでした。
 しかし、商品流通の促進を図る松本藩の後押しと、勘定奉行のとりなしがあり通船を進める側と反対する宿場、中馬側の示談がなり犀川通船が実現しました。
 
(2)通船営業
 松本藩は女鳥羽川と田川の合流点に船会所を建て準備を整え、天保3年8月、松本白板-信州新町間で営業が開始されました。
 明治になると、宿駅制度は廃止され、犀川通船の独占権も消滅、積載貨物の制限や乗客の禁止もなくなりました。そこで、白板の折井儀右衛門らは犀川通船会社を創って近代の通船に当たりましたが、起点は一時千歳橋の下まで乗船場が移ったこともありました。
 犀川通船会社は最盛期には30艘以上の船を所有し、「船の大きさは大船が上のり11間、幅6尺2寸、深さ3尺」でした。「船頭は大船が5人、小船は3人であった。」所要時間は「松本新町間が6,7時間」「上りは一人が乗り他は綱を引いて川岸を上り、松本までは3,4日要した」(前掲書P271)といいます。停船場は、新橋・押野・会・橋本・新町・三水の6箇所でした。
 
(3)篠ノ井線の開通、犀川線の全通と犀川通船の廃止
 「明治35年篠ノ井線開通後は松本からの出航は廃止され、鉄道で運ばれた荷物は明科駅でおろされ、荷物は陸路荷馬車で明科の竜門淵や、多くは木戸に運ばれ乗船した。犀川を船で生坂、山清路方面へ送られ、さらに信州新町へと下っていった。」(「松本市史」第2巻歴史編 Ⅲ近代 P419)
 そして、陸路の犀川線(現在の国道19号線)が昭和3年に起工され、道路の改良が進み、次第にトラック、バス輸送となり、同12年に松本-長野間が全通すると百年余続いた通船は姿を消しました。
 なお、山清路下りの遊覧は大正時代から盛んになり、昭和32年に平ダムが完成するまで続きました。(※)