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洗馬から郷原(善光寺道の宿場)まで1里半、塩尻(中山道の宿場)まで1里30町です。京都から江戸まで69宿のうち、洗馬は39宿にあたります。およそ6町(約650メートル、1町(丁)は60間・約109メートル弱)ほどの宿場通りです。多くの大名たちが参勤交代などのときに荷物の目方を改める役所が置かれているのは、東海道の府中のようです。そもそもこの洗馬宿は、木曽の深山幽谷をのりこえてきて、桔梗が原の広野に出る最初の地です。木曽の喉にあたる重要な場所で、繁昌していて、遊女なども大勢います。洗馬宿本陣の百瀬氏と志村氏の林泉は中山道にも珍しいといわれています。珍しい石や木がある枯山水は、訪れる旅客も多く、休泊して詩歌を遺したりしています。
(注)洗馬宿は、中山道の宿駅で、上りは本山宿、下りは塩尻宿へ継立てる宿であり、また郷原・松本方面へ向う善光寺道との分岐点でした。宿の長さは、5町50軒です。慶安4年(1651)に戸数117軒、天保14年(1843)に163軒で、本陣・脇本陣・問屋などは中央部に軒を並べていました。
本陣の南側に、正徳2年(1712)から江戸の板橋宿とともに幕府の貫目改所がおかれ、継ぎ立荷物の目方を検査しました。間口5間・奥行5間の板葺の建物で、役人が常駐していました。
昭和7年(1932)の大火で洗馬宿の大部分を焼失しましたが、善光寺道との分岐の石標・邂逅(おおた)の清水・本陣・協本陣の庭園などにわずかに昔の面影をとどめています。
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神明宮は、洗馬宿をはなれた右手の堤にあり、ここの産土神です。天照太神を祀っています。
義仲馬洗水は、太田の清水といいます。洗馬宿を出て左の方にあり、太田村のなかです。木曽義仲が馬を洗ったので、この名がついています。ここから18町いった西に元洗馬がありますが、木曽川にあづま橋を渡していて古道といわれています。
ここを流れる木曽川は、中山道の木曽川ではありません(いまの奈良川)。鳥居峠を水源にして、中山道本山宿の裏通りからここに出て、北流して各地の谷川が集まって大河となり、松本の西に流れ下ります。安曇郡の熊倉の橋あたりから犀川という名になります。
肘松が、洗馬を出て塩尻の方へ別れる坂口にあります。太さは8尺ほど、繁茂して四方に枝を垂れ、旅人の笠にふれるほどです。幕府からの沙汰として枝葉を払う事が禁止され、周辺の100坪ほどは租税を免除された除地になっているとのことです。
ここから桔梗が原で、東は塩尻あたりまで、西は木曽川端まで、北は松本のあたりまで広い広野が続きます。太平の世を楽しむ農民たちが耘耕に力を尽していて、いささかも不毛の地はみえません。郷原までのあいだは人家がなく、休む木蔭もありません。暑い時の旅人は喉の渇きをしのぐ用意が必要です。この街道は、5、6月の頃には奥州南部あたりより牛の子を多く牽出しています。ほどなく郷原宿にでます。