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7町ほどの宿場です。本陣の横内氏の林泉は佳景です。乱橋(みだれはし)まで1里12町、そのおいだに立峠(たちとうげ)があります。この峠は、登り30町、下り18町の険路です。北東に虚空蔵山が見えますが、会田小次郎広政の古城地です。広政は海野幸継の2男で、はじめは当国衆の一味でした。小笠原の籏下でしたが、武田家の鋒先が強勢だったので、甲州へくだって10騎の軍役になりました。小笠原氏が帰国のあとは、会田・青柳・麻績3家とも滅ぼされました。
福寿山広田寺(こうでんじ)は、宿のはずれの右側にあり、この寺に会田小次部の位牌を納めています。同石碑があります。本尊は阿弥陀如来(行基作)、前立正観音(最明寺殿作)。
これから5町行って、右側に弘法袈裟掛松という1本の古松があり、奥に無量寺という寺があり、また2町行って、岩井堂村に弘法大師の古跡があり、岩井堂といいます。立峠の登り口です。
(注)立(たち)峠(太刀峠)は、急峻な峠道です。会田宿は、この険路を控えた南麓に置かれ、善光寺道と上田・明科・筑北の各方面へ向かう道が出会う、交通の要衝として栄えました。
会田宿は、鎌倉時代に小県郡から進出してきた海野(うんの、会田)氏の城下町で、宿の北上段の殿村に居館を、虚空蔵山中腹の中の陣に本城を置きました。
宿として正式に成立したのは慶長年間(1596~1615)で、南より立町(新町)・中町・本町となっています。文久3年(1863)には、旅寵屋12、木賃宿4、馬牛宿3、茶屋5軒がありました。新町の角に「左ぜんかうじ道」の道標が立っています。
虚空蔵山は虚空蔵菩薩を祀り、詰の城で斜面に200あまりの小曲輪があります。天文22年(1553)に武田氏に、天正11年(1582)に小笠原氏に攻略されました。会田・筑北が一望できます。
殿村から虚空蔵山周辺の遺跡調査が、松本市教育委員会によって継続的に調査されています。
広田寺は、もとは知見寺にあり海野氏の開基です。永正8年(1511)に、山辺の広沢寺四世の中興開山。天正11年(1583)に小笠原氏に攻められて会田氏が滅びたときに兵火にあっています。山門は、天明3年(1783)、本堂は、享和3年(1803)の再建です。寺宝に桃山時代の過去帳・真田系図・狩野派の屏風などがあります。沢の西の会田塚は、会田氏の戦死者の遺骨や遺物を埋葬した塚です。
岩井堂は、善光寺街道の立峠下の岩山にあり、信濃三十三番観音中第20番の札所です。江戸時代中期の千手観音坐像が安置されています。周囲の岩山には磨崖仏や百番観音等が多く、古代の霊場でした。石炭の坑口も残り、炭坑記念碑も立っています。