[現代訳]

天保(てんぽう)四年(一八三三)癸已(みずのとみ)、同五年甲午(きのえうま)、同六年乙未(きのとひつじ)、同七年丙申(ひのえさる)、同八年丁酉(ひのととり)、同九年戊戌(つちのえいぬ)、同十年巳亥(つちのとい)、同十一年庚子(かのえね)の春まで知るにまかせて、
 
  (改頁)
 
飢饉の天災があることは、昔からその数はきまりがないというが、およそ近くは四十年、遠くは五、六十年に一度は飢饉があり、その間に二、三年や四、五年の間に二度続くこともよく聞き伝えられていることだ、中古以来の飢饉を尋ねてみるに、天文(てんぶん)十四乙已(きのとみ)年(一五四五)と十五丙午(ひのえうま)年の飢饉は、これを巳年(みどし)の飢饉と呼び、それより九十六年後の寛永(かんえい)十九壬午(みずのえうま)年(一六四二)に大飢饉はあり、この間に飢えることがあったのか、なかったのかはわからないが、その後三十三年をへて、延宝(えんぽう)三乙卯(きのとう)年(一六七五)、それよりわずかにに六年を経て、天和(てんな)元辛酉(かのととり)年(一六八一)、その後五十一年をへて、享保(きょうほう)十七壬子みずのえね)年(一七三二)である、
 
  (改頁)
 
またそれより五十一年をへて、天明(てんめい)三癸卯(みずのとう)年(一七八三)の飢饉、つづいて三年後の天明六丙午(ひのえうま)年(一七八六)、それより四十七年を経て、いまの天保四癸巳年、この間の年数はすべてこのようである、この患いにあっても此人の心が改められなければ、凶年はさらに続くこともある、人心が改まり、怠ることを戒め、奢ることを省き、身を懲らして再びしないようにするほどになれば、天災はなくなる、しかして、数多くの年を経ても飢饉の苦しみを忘れない者は、みんな年老いて多くが死んでしまい、その頃に幼稚で苦しみも知らない者が老いてゆき、それより若い者たちは、噂だけを聞き伝える頃になれば、だんだんと怠って背いて奢侈(しゃし、ぜいたく)になっていく、そうなったときに天より罰せられることになる、これは五十年以後に
 
  (改頁)
 
相当する年数である、そうであるなら、その間の多少の災難ではなく、人の心が怠り奢れば、たとえそれほどの年数が経たなくても、天災はやってくる、恐れ慎むべきことだ、
飢饉の手当
米を洗った水へ、蕪(かぶら、かぶ)・大根(だいこん)など何でも入れて煮てよい、
一、米糠(こめぬか)を水に沈め、何回も何回も水を替えて、水簸(ヒ)にして食べてよい、
一、豆腐をこしらえ用いてよい、から焼き餅そのほか何でも食べてよい、自分で拵えてもよいが、薪が面倒であったり、入れ物の道具がなければ、、やはりち賃金をだして、豆腐屋に頼んでみることがよいことだ、
一、豆を多く食べることがよろしくないと言う者があるが、たしかではない、
 
  (改頁)
 
一、サイカチ(マメ科の落葉高木)の葉がよい、
一、白豆は劣る、黒豆は水腫を治し、悪血(おけつ)を下し、百薬の毒を解毒するので、多く用いても害はない、服薬する人は斟酌(しんしゃく、ほどよくとりはかる)すること、
一、飢饉の年は、豆はいつものように実る、
一、(くず、マメ科の多年草)の根は百病に効くといい、用いても苦しくない、ひくる一、蕨の粉(蕨の根からとる)もよい、
一、薇(ぜんまい)の粉をつくるときは蕨よりもよい、にせいする時ハ、
一、草〓(トコロ)を水中に数日にわたって入れて置き、苦味をとってから用いる、「本草綱目」には「甘平無毒」と記されている、蕨・の粉よりはるかに劣る、
 
  (改頁)
 
一、大根葉・芋の葉は、茶かこい(茶室か)に置くこと、どれだけ古くてもよい、
一、オオバコ(オオバコ科の多年草)の葉は、飯に入れるとよい、
一、飢饉のあとは必ず疫病が多くなることは、昔も今も同じなので、心得ておくように、享保十七壬子(みずのえね)年(一七三二)は飢饉で、その翌年に疫病が流行ったので、公儀より疫病を防ぎ、いろいろな草木を食べるはいいが、毒にあたることもあるので、毒消しの方法のお触れがあった、
笹の実は、たいへんに極上である、
一切の毒にあたったときは、塩を温い湯に掻き立てて飲むとよい、草の葉にあたったときはなお効果がある、
 
  (改頁)
 
一、胸が苦しく、腹が張って痛むときは、「くゝつゝ」を水に入れて、よく煎じて飲めば、食べたものを吐き出すので効果がある、
一、大麦の粉を煎て、白湯でたびたび呑んでよい、
一、口と鼻からが出て苦しいときには、葱を刻み、水を一合入れて、煎じて何回も呑めば、血は止まる、
一、大粒な黒豆を水で煎じて何回も用いてよい、魚の毒にあたったときには、なお効果がある、
一、赤小豆の黒焼きを粉にして、蛤の貝をひとつずつ、水で呑んでよい、獣の毒にあたったときは、なお効果がある、
一、茸の毒にあったときには、カンゾウかんぞうの葉と茎を、生のまま噛み、汁を呑むとよい、これはすべての食物の毒に効く、
 
  (改頁)
 
または、いろいろな草木・魚・茸・鳥・獣などを食べて煩ったときには、その害をのがれられる、
一、時疫には、大きな黒豆をよく煎って、一合にカンゾウ一匁を水で煎じて、ときどき呑むこと、
一、茗荷(みょうが)の根と葉を搗いて、汁を取って呑むとよい、
一、牛蒡(ごぼう)を搗いて汁をとり、茶碗半分ほど二回呑み、そのうえ桑の葉を一握りほど火でよくあぶり、黄色になったときに茶碗に水を四杯入れて、、一杯に煎じて飲んで汗を取るとよい、桑の葉がなければ、桑の枝でもよい、
一、日熱がことのほか強く、気が違ったよう騒ぎ苦しむときには、芭蕉(ばしょう、バッショウ科の大形多年草)の根を搗き、汁をとって呑むとよい、
飢えた者に食物を与える
 
  (改頁)
 
には、心得がある、
飢えて死のうとする者に、急に食物を与えれば死んでしまう、まずは重湯(おもゆ)を呑ませて、一日経ってから粥をあたえ、三日経ってからのち飯を与えること、
漢書に曰わく、「金は山ほど積み置かれていても、飢えたときには食べることができない、寒いときんは着ることもできない、米穀と衣服は国の宝である、一粒を食べるとき農夫の一年中の苦労を思うべきだ、一縷(まとい)を着るときも、織女の辛労を感ずることだ」と、このことを、朝夕忘れないようにすることだ、す
 
  (改頁)
 
天保四癸巳年、違作、春雪おりおりに降り、三月一日頃にたいへん寒く、雪が降った、
四月十二日に、我らは戸倉(とぐら、埴科郡)へ、早朝に出発して出かけた、神戸新田(ごうどしんでん)の定之助ともに、この日は太陽が赤いこと、空は霞のようにになり、そのなかから御影が拝めた、山野にいたるまで色がかわり、「草木くるみ」が道端にあり、その木が、かけ地へ移って黄色になっていて不思議と申し、その後の噂では、江戸が大火事にでこのとおりかと噂をする、
 
  (改頁)
 
四月下旬より旱魃、五月に入ってだんだん雨が降る、五月二十一日には水が増し、それよりおりおりに雨天、
七月五日頃の噂では、とかく雨天で、このぶんでは出穂がおぼつかないと、
七月八日頃から、白い毛が降るともっぱらの評判で、我らも人の拾ったものをもらった、ある人の申すには、これは天で生じて落ちてきたのものなので、「もとうらなし」という、松本などでは屋根にもあるという、たいがいは道によけいにあり、もっとも、草木の中まではわからない、白馬の毛もあるのだろうか、よくわからない、
七月十七日頃にまた照り又てり、菜の類が生えてこないという、
七月下旬、和田(わだ、松本市和田)に狸の害があり、不陽気につき、上より一気に押し寄せた、
 
  (改頁)
 
八月四日頃に木曽の奈良井(ならい、塩尻市奈良井)より、米の無尽(むじん)に来る、騒々しくなった、このとき、米一升代が百八文、粟一升代が九十四文、
八月八日頃に、正直すぎるのを心配して、粟一両に一石かえとなる、高直の噂という、
九月九日に大霜が降りる、作物に影響がでる、
九月二十一日頃、江戸米直段が百文につき六合五勺、百文につき引き割り八合、
九月二十三日、御役所にて先年に御預所の御才覚を仰せ付けられたので、御無尽金など残御割り返し、御気の毒千万、ことにこの節、松本様にも御不手廻り、これは伊那より出府にて出入り、小口によんどころなく申し上げてもよい、
 
  (改頁)
 
九月二十六日、御検見(けみ、豊凶の検査)が入り、御奉行玉川助之丞様、一合の実りにて八合九勺、二合にて一升二合、この年のあたり稲、「飛彈坊主」がよい、「一ばいもち」がよい、「赤野良」は中、「あせこし」よい、「早稲飛騨」はよい、「越後白葉」は大いによい、
不作のなかにて、一坪一升二合あり、
簑三分囲粟、「めざし」よい、「小ン坊粟」よい、「赤から」よい、「おく粟」いずれも悪い、
我らは御蔭でかなり取る、籾二十五俵、粟十三俵三斗ほど、だんだん騒がしく、
十二月一日に奈良井伝馬宿、
 
  (改頁)
 
「がらく」持参、穀類をねだる、三匁五分くらいのもの、粟二升にて取る、
十二月八日夜より雨降る、暖気なことが異常である、庭皆とける、来年を案じる、
十二月十四日 御役所より、籾子金子を下さり、御預け惣村へ千五百俵、金四百両、神戸(ごうど)村分は籾八俵、金二両二朱一匁八分、
十二月二十一日、右の籾の割賦、村役人は二升五合宛、それより段々あり、困窮者ヘは一斗五升も遣わす、銭も右ニに順じて遣わす、村方へ、藤三郎・何右衛門年賦金をかせる、
三十日、曇る、南風吹き暖かい、
 
  (改頁)
 
庭とけ、雨落する、右はただ心覚えのみ、後年に見安くするためにきために、あらましを記す、委細は日記帳にある、名主に藤三郎方上向き書き留めがある、
このときの役人は、名主が藤三郎、百姓代が何右衛門・角之丞・定三郎・重四郎、組頭は順番に役人のうちからつとめる、
 
  (改頁)
 
飢饉に毎年むかう、
天保五甲午(きのえうま)年(一八三四)記す、
正月元日、おだやかにして暖い、雪が少し降る、
四日、大凍み(しみ、)
十日、雪が三尺ほど(九十一センチメートル)降る、
正月二十八日、塩尻の阿礼(あれい)神社において、御上の御祈祷、御祈祷御秡、五穀成就祈攸、この札八か村へ御渡す、うらに「阿礼神社神主 国土罪秡 虫災消除攸 右御祈祷ニ定之助・角之丞行」、
御囲穀拝借御買入穀、五月六日に御貸渡、二十八石二斗九升七合五勺九才、
 
  (改頁)
 
御手代の高木此右衛門様、御添役の石榑妻右衛門様、大元穀を公儀より御下げ渡し、四斗三升四合四勺八才、これは御貸にならず、
今井村(松本市今井)で御検地あり、
二月十日 松本様の江戸御上屋敷御類焼、御隣屋敷の松平伯耆様より出火、
四月十二日、桑山村(くわやまむら、佐久郡、小諸藩領)で人殺し、長左衛門、村方にて打首獄門(ごくもん、首を獄屋の門にさらすこと)の御成敗あり、
五月十一日、我ら田植え、風雨順調でよい、
六月七日頃、小麦たゝき、どうしたことか、麦畑が途中からより折れて黄色になり、大不作、
七月二日、松本で火事、本町(ほんまち、松本城下町)杉屋より出火、
 
  (改頁)
 
古見(こみ、東筑摩郡朝日村)・今井一件につき、御見分地の今井にて差頭取の円右衛門
・安兵衛、七月十日に唐丸籠(とうまるかご、罪人の護送に用いる竹籠)で江戸へ行く、
七月二十七日、我らの蔵の裏堰の東柳の木へ雷が落ちる、木が砕け、我らの蔵に、そびけ当たる、茂右衛門娘が住む家まで、この柳の木から五尺ほど(一五二メートル)の距離、我らの蔵へ四尺余り(一二一メートル)もあり、危なかった、
九月十一日、初めて大霜、雪降り、諸作物にあたる、手作籾四十三俵あまり取る、上作である、豆十二俵取る、不作のため、我らほど取った者は村方にはいない、
松本様御借用高が十三万両ほどになり、このたび、御領分十六人へ仰せ付けられ、相済ませるべき手段の人々、その年の日記のまかせてある、
 
  (改頁)
 
大三十日、穏やかで、世の中は静かだ、
天保六乙未(きのとひつじ)年(一八三五)、幾年も続くのでこれを記す、
正月元日、風あり、
大豆八斗を忠兵衛が世話をして嘉平次へ売り、その代金は三分二朱、同じように古見村の人に二駄売る、
三月末ニに、二匁ほどあがる、
五月、米八斗を新田の車へ売り、代金は一両、同じく、
閏七月、米一駄(一駄は四十貫または三十六貫)を古見村の者に売り、代金は一両と百文、
八月、米一駄を留吉へ売り、代金は一両二朱一匁四分一厘五、
 
  (改頁)
 
粟、金一両につき一石五斗で忠兵衛へ売る、種、金ばん両に五斗八升、
六月二十二日、当年は田方の早稲へ、浮塵子(うんか、カメムシ目ウンカ科の昆虫、稲の大害虫)が大そう集り(たかり)、人々は田方へ水を大分かけ置き、箒で水尻へ掃出しはき出した者もいるので、水尻の人が困って、諍い(いさかい、言い争い)があった、この日村中で浮塵子追いをした、ったうんかおい致ス、松明(たいまつ)をこしらえ、夜に入って念仏を申し、奈良井鎮明神へ代参した、庭の砂をもらって田へまく、当年は、上まい草がどこもよろしく、そのなかに浮塵子が発生し、いずれの田方にも浮塵子が集りいつれ、苗間(なえま)より沢山居るので、早植えがよい、鯨の油を串にさして水口(みなくち、田へ水を引く口)へ入れる、また、歌を書いて田へ立てる、
 
  (改頁)
 
「出雲なる佐陀の広田に穂かけして、つゆもろ共に、実法五くさ、我等田方うんかすくなし、有かたき事」、
七月二十一日、松本清水(しみず)の全昌寺の庭の芭蕉の花を見にゆく、九本のうち、開いた蓮華(れんが)のような中に花があり、その花の下より上へ段々と蓮華のおちさきのぼる、このなかの袋は甘露である、これを「優曇花(うどんげ)」という、しかし、花の咲かないものに花が咲くは、優曇華(うどんげけ)というが、誠の優曇華というのは、ウドンバラといって、花が咲かずに実を結ぶ、これ三千年に一度、金の花が開く、これが優曇華だ、
 
  (改頁)
 
盲亀の浮木、うどんげの花ということが、「嶋本宝鑑」に詳しく載っている、
九月十一日 神主が家の地形に取りかかる、
九月十八日、家を建てる、
御検見入り、九月二十七日
藤三郎宿 壱合毛にて一升一合、二合毛にtr八合一勺
御奉行の玉野勘兵衛様 初の坪にて七勺を御用捨、後の坪にて二勺を御用捨、
天保銭を見る、一つ百文ニに換え、ほかに「文」の字のある二分金が御停止(ごちょうじ、さしとめ)になる、
十一月二日、三日大雪、林の木がだいぶ折れる、
 
  (改頁)
 
十二月三十日 風なし、穏やかだ、未年(天保六年の今年)は浮塵子が我らの田は少なく、田方いは以前のままでありがたいことだ、籾四十弐二俵を取る、粟十一俵余、蕎麦八斗、大豆九俵ほど、
天保七丙申(ひのえさる)年(一八三六)、凶作
正月朔日、穏やかにして天気よし、
二月 大豆一駄を忠兵衛に売り、この代金は一分づつにて、
四月 大麦一両につき一石七斗かえ、
 
  (改頁)
 
五月四日 田植え、五月中九日
五月十一日 満水(まんすい、河川の増水)、
五月十五日 たびたび雨天にて川の水はまったく清らかにならない、
七月一日 陽気が立ち直ったので、村方より祭り願い、これまでは雨天がちで田方の生い立ちは相応に見える、
七月九日 役所へ罷り出で、御下金を、去年の御直段三か所平均で金一両につき米九斗一升五合、右は高直につき郡中より江戸表へ仰せあげられ下されるように、松本御役所へ願い奉り、御下げ引きが叶う、文政九戌(一八二六)より 十か年平均で天保六未(一八三五)まで、一両につき、一石一斗八升四合一勺二才、
 
  (改頁)
 
七月二十二日 米一駄につき一両一分五匁にて売る、
七月二十七日 米一駄二月一両一分二朱一匁にて売る、
七月十九日 稲と粟の穂がよほど出る、
七月二十四日 日々雨降り、出穂の最中で、百姓みな残念がる、
七月二十六日 このあと出穂、貸し借り取りとり申さずの噂、
七月 出穂中に、つごう十日間の雨降り、そのほかの日は曇りで冷気がち、
七月二十七日 今日も雨降り、田方の穂もいまだに垂れない、半作にもいけばよいのだが、米も一駄一両一分二朱一匁になり、とかくしきりに雨で、前栽(せんざい、庭先の草木・草花)や茄子などに一日中水をかけていた、
 
  (改頁)
 
ことなく、茄子の花が落ちる、川原の水は常に増水、善光寺平は、このあと出穂がないとのこと、
八月七日 米一駄を小の沢の小市へ売る、この代金は一両二分、種を四斗六升がえにて売る、
八月十四日 昨夜の北大風が、あちらこちらの草木や枝葉を吹き落して大荒れ、粟はみな吹き倒された、、山は麓まで大雪が降る、豆の葉が破れたが、氷(雹、ひょう)でも降ったのか、
八月二十一日 出穂の御見分、西風が寒く吹き荒れ、この日の夜、西山(飛騨山脈)の麓まで雪が降る、
二十五日 甲州(甲斐国、山梨県)騒動、武州(武蔵国、むさしのくに)酒屋まで潰し、蔦木にて差し留めたよし、
 
  (改頁)
 
塩尻へ御出役、
九月二十七日 御検見、御奉行は二子(ふたご、松本市笹賀)に御泊へ御伺に行き、御より御書下げ、
凶作の手当、藁餠の製法
一、何藁によらず根元より上節まですべをとり、莨(たばこ)を切るごとく庖丁にて細かく切り、ちょうどよいかげんになったら、石臼で粉にし、米の粉または粃(こうじ)の粉でも、等分または三分の一をまぜて専一にし、食事の足しにしてよい、藁囲いをよく刈り上げてからよく日に干し、蒸れないよう囲い置くこと、かこひ置べし、干藁を製するには、すべをとって、半日ばかり水に浸し、前のように
 
  (改頁)
 
粉にして用いる、藁はできるだけ実入りが少なく竦(すく)ませたほうが粉が多くなる、根元から上の節までを用いること、
松本より大麦を買いに来る、金一両につき六斗八升かえ、
九月二十九日 当村へ御検見に入る、御奉行の長谷川是悲之助様と御手代の関口重左衛門様、御同心御侍ともに、一合毛にて七合八勺、二合毛にて七合、いずれも「越後白葉」、雨天で乾かないので、「さぞうし」の上に紙を敷き、焙炉(ほいろ、乾燥炉)にかける、
当年の検見帳、〆て反別合せて十二町八反九畝二十六歩、この高は二百三十一石三斗四升三合七勺、惣毛揃い、
 
  (改頁)
 
一反五畝歩が三合毛、三反二畝二十歩が二合毛、二十五反六畝八歩が一合毛、九十八反五畝二十八歩は皆無、当年の御引きは八割六分余、
元田米、高百十四石一斗一升三合に定め、うち、九十八石一斗四升三合を御引き、残って十五石九斗七升を公納、米一石につき八斗六升をかけ、五合八勺二才過ぎ、小前寄せ米に五升あまり過する、二、三納にてならす、引き米を元田高にて割れば、何割引きかと知れる、
九月三十日、村方小作人が、新宅の北小原へ寄り集り、火を焚いて騒ぐ、我ら・定三郎・十四郎を頼み、藤三郎と何右衛門へ相談におよび、四分六分のかりわけを、五分五分として、済ませるべきと申し聞かせ、稲を刈る、
 
  (改頁)
 
十月十七日、雪降る、
九月二十四日、小俣(こまた、松本市笹賀)の本宅へ今村(いまむら、松本市笹賀)の末次が参り、落し文(おとしぶみ)を内々に見せる、清水一枚紙に左のとおり書かれている、
「十月二十日十時までに神戸原みて集まり、小俣の亦兵衛殿へ参って、米無尽をしたいことを、なにとぞ御聞きなされたいと」、
左の丸が右の下にあり、右について小俣より御役所へ、この日の夜、御届け、
 
  (改頁)
 
恐れながら書付をもって御注進申し上げ奉る、
一、今月二十四日夕方六時、今村の末次と申すものが、大和(おおわ)又兵衛宅へ参って申すには、私の家の表の縁の下に、落し文があったという、なおまた、今日もまって洗馬(せば)御詰所から、上条与市様がお越しあそばされ、名主代の与次郎宅においてお尋ねがあったので、落し文のいきさつを申し上げた、それ以来、之次第奉申上候、見たり聞いたりしたことがあれば、早々に訴え出るように仰せつけられた、別紙落し文をお見せし、御注進申し上げる、筑摩郡小俣村名主五助、天保七申年九月二十四日、松本御役所へ、
公儀からの御触れ、

内府様が御移徙(いし、転居)、当日より上様と称える、
 
  (改頁)
 
将軍の宣下(せんげ、宣旨を下す)、当日より公方様と称えること、
一、公方様が西丸へ御移徙、当日より大御所様と称えること、
一、御台様が西丸へ御移徙、当日より大御台様と称えること、御簾中様が御本丸へ御移徙、当日より御台様と称えること、
右のとおり、公儀御触れがあったので、大小百姓・寺社へも洩れのないように申し達すること、、この書付を早々に順次に送達すること、留まる村よりは返すこと、申十月
一日 松本御預役所より、
 
  (改頁)
 
甲州騒動の調役、御勘定・御留役の金井伊太夫、御評定所・同下役の七之助が、甲州に居り、新田次郎右衛門の甥の喜与蔵三溝、生所は神戸新田と申し上げたのかという御差紙(さしがみ、出頭命令書)を、次右衛門が甲州へ罷り越し、喜与蔵へ御下渡しして、連れ戻った、この人物は、やむをえないことを仲間にも申さず、御手にあい、牢舎で一日にムスビ二つずつ下されることを許され罷り出たが、歩行に困り、ようやく連れ戻ったという、
十月十四日以前、小俣の本宅金山様の前に落し文があったという、これは木曽より小俣へ加勢に参った御礼と申すという、これまで、穀類を木曽へだんだんと送られ、このたび騒動を防ぐという文面が、
 
  (改頁)
 
帰ってきたときに、本洗馬(もとせば、塩尻市)の親方を潰したことを、十月十五日に御役所へ届けた、
洗馬宿(せばじゅく、中山道の宿場、善光寺道との分岐点)の米屋にも落し文があった、、これは木曽より千人ほど罷り出たので、弁当を頼むという、米屋でもニ御詰所へ御届け申して用心し、宿方取持のものを呑んだり食べたりしたとのこと、
先年巳年(天保四年)の凶年のとき、何人かの狂歌、
浄土宗 〇祖師の名ハ 法然なれと きゝんとし 源空ものハ 乃至十念
一向宗 〇喰ものも くハねハ門徒 物知らす 余間にたおれて うごけ内陣
 
  (改頁)
 
日蓮宗 〇雑水で 腹ハたぶ/\ 法華宗千葉日蓮が 廿八文
禅宗 〇禅なれと くふべきものハ 無一物 さとって見てる 腹にひたるさ
真言宗 〇真言の 御粟がゆハきいろ じゃのはらはりたやで ミんなうん/\
天台宗 〇仕合な ものハ天台大師講 家々ことに 小豆かゆなり、〇作物悪し 吉しを知る
三伏(さんぶく、夏至のあとの三番目の庚・かのえ・の日を初状という)こと、
 
  (改頁)
 
六月土用三伏のうち、初伏(しょふく)が土用に近けれは冷気が強いという、凶作の年は土用より初伏の間は一日のくらいという、近来午年の豊作は六日一日、初伏は庚の日だという、三伏とも庚である、
金は、冷えるものだ、
松本郷宿計払い六分のところ、銀八分が現金になる、
十月十九日の晩前にあった小俣の落し文について、御目付が新田に御泊り、明二十日の晩によぷじんするように仰せつけられ、二十日の晩に役元で寄合があり、西の原の見廻りをした、同日に藤次郎が高遠領へ噂を聞きに行き、その日の晩に小俣の役元へ四人の御支配役人御が泊まり、角之丞と藤市が伺う、
 
  (改頁)
 
本宅でも、奥の間へ道具飾りがすばらしいことだ、その夜は何の沙汰もなく、穏やかだった、
十一月二日 麻績(おみ、東筑摩郡麻績村)・安坂(あざか、東筑摩郡筑北村坂井)に騒動が起こったといい、松本へ飛脚、急いで御出役、朝比奈門蔵様、
十一月八日 米一駄、かなばん二両一朱になる、
豆八斗、代一両百七十六文
十一月七日 藤三郎と何右衛門が郷目附へ御召し出て、今年の窮人を救うために金子(きんす、金銭)を差し出すように仰せつけられたという、
十一月二十日 公儀へ拝借願いについて、松本で相談、
天保七申年の御直段、金一両につき、六斗五升七合五勺
十一月廿八日 新宅の男留太郎が、
 
  (改頁)
 
外で拾ったという落し文、
一、捨て書き(なぐりがき)をもって申し入れる、このたび、村々が今年が下作なので、、調査をし、引き方六割五分と定めたが、はなはだむずかしく、村々の地持方へ御無心したいので、二子(ふたご、松本市笹賀)くほへ当月二十八日に御寄り申すこと、村々下作(げさく、小作)衆中へ、
十一月二十七日、引き方について、宮へ小前(こまえ、小百姓)より相談、
村方より、御上の御引きほどを引いてくださるように申し出る、地親が申すには、たとえば、十足かり、四斗上納にでる、八斗預り、当申御引き二斗八升八合、これで六割ひくと、四斗八升引かれる、差引が一斗九升二合、上の引きよりよけい引き、この理由を申し聞き遣わした、
 
  (改頁)
 
十二月十三日 御預所の村々が、御白洲(しらす)に召し出され、小前惣代ともに、当村の藤二郎と彦右衛門が出る、御奉行の柴田七郎兵衛様と能瀬覚兵衛様、御手代の成瀬鹿右衛門様、仰せ渡される、
今年は田畑は格別の凶作で、去る酉年(天保八年)以来、違作(凶作)が続き、豊作になったことは稀で、村々一同は、次第に困窮を増してきていてこまっており、そのうえ、今年は夏作・秋作ともに不作であり、毎年凶作が続き、村方は米穀など差し支えることは必至の状況と思われるので、山野の食糧になるべきものは、
 
  (改頁)
 
油断なく取り入れ、かつまた米と金の融通については、組合や村方やゆかりの者をもってな当面は凌ぎ、これまで、難渋の年柄が続くことだけは御厄介でもそうならないように、村役人はもちろん、小前の者たちまで、ともに心掛けていくことは、特別なことであり、このような難渋の状況を聞いたならば、片時も捨て置かないように、何れとも御取り救いがないように、御領分の村々、ともかくも毎年違作が続き、今年は御収納が多
 
  (改頁)
 
分減り、御家中へ御渡方などもきっと差し支えるだろうから、御減米も仰せつけられるだろう、御手も届きかねるので、不本意ではあるけれども、筑摩郡と伊奈郡の御預所の村々へ、御救いとして、少しながら分籾千俵を殿様より下し置かれ、役所より金子を年賦で貸渡し渡して融通して、難渋のときを何とかして凌いでいけるようにしていきたい、こまかいことは、郷目附から申しす、申十二月十三日
我等手作りの秋もの、豆十俵あまり、粟十俵、みなみな不作、籾二十三俵、早稲飛騨はよい、
 
  (改頁)
 
十二月二十四日 御役所より籾子を頂いた分と借用金の配当、籾子は困窮もの一斗、それれより一升または五合まで配当、銭は軒割で百二十文ずつ、十か年賦で拝借、藤三郎と何右衛門方より村方へ貸した金は無利足、利安金とも、年延し、ならびに倹約書と村無尽も、来る酉(天保八年)七月まで延ばす、
御預所へ籾千俵をくだされた組の分は、五俵が神戸、四俵が新田、十俵が小俣、六俵が今村、十三俵が二子、十六俵が上神林(かみかんばやし、松本市神林)、三表が水代(みずしろ、松本市神林)、一俵が下神林(しもかんばやし、松本市神林)、
金子の拝借、一両四百四十五文(神戸村)
 
  (改頁)
 
二分九十四文(水代村)、三両二朱百三十七文(上神林村)、二朱三百文(神林村)、二両二分三百六十文(二子村)、二分二朱五百三十文(神戸新田)、一両三分二朱五百八十三文(小俣村)、一両二朱(今村)、〆て十両三分二朱に貫四百六拾文、
歳暮配りあい、止め、
我等わで村、昆布一包ずつ与える、北両家では米を遣したという、
十二月二十四日の晩、小俣の本宅に捨て子があり、捨てた本人がわかったので、平沢(ひらさわ、木曽の平沢か)へ戻す、それぞれに手当をする、
木曽へ米勘定に参る者、噂にて承知して引き受けたところ、贄川(にえかわ。塩尻市)では、拝借は来る正月十七日までできないということで、それまで正月を延すという、前代未聞のことだ、
十二月二九日 節分、年取り、
 
  (改頁)
 
天明三卯年(一七八三)の飢饉のときの書留をここに記す、

百姓たち大勢が徒党を組み、諏訪から塩尻へ押し寄せてきたといい、村々の役人は、人足を召し連れ、、人々は棒やそのほか得意とするような者を持って、この書付が届き次第、塩尻宿(中山道の宿場、塩尻市)へ罷り出た、その場で指図するとのこと、十月一日、天明三卯年である、
天明四辰(一七八四)正月の書留、
閏正月二十三日の願書の覚、
恐れながら願上奉ること、
私ども村々の国役金(くにやくきん、幕府が国役・河川かいしゅうなどの課役やその経費・として徴収した税金)を、去卯年(天明三年)に差し上げる分は、凶作のために年を延期してもらってありがたいことだ、これにより、
 
  (改頁)
 
ただいま下げ渡しくだされたところ、もはや来月の御上納金もないので、御上納の御触金のなかへ差し加えくださるように願いあげた、八か村、
天明四辰年閏正月の連紙、
恐れながら書付をもって願い上げる、
私共の村々は、前代未聞の凶作のため、夫食(ぶじき、農民の食糧とする米穀)が不足し、開墾して作物を植えることもできないので、御拝借を願い上げたところ、御聞き届けいただきありがたく幸せである、しかるところ、中山道の贄川宿(塩尻市)より宮越宿(みやのこしじゅく、木曽町日義)までの四か宿へ助郷(すけごう、近隣の村が宿場へ応援の人馬を負担すること)を勤める村方であり、昨年の冬から作間(さくま、農閑期)には、木の実・(くず)の粉(根から採る)・粟ぬか、そのほかいろいろな雑炊(ぞうすい、粥)にして生活してきている、宿場を御用御通りのときに人足を差し出しても、御荷物を持ち送ることは
 
  (改頁)
 
できない、御上様に御慈悲をもって御用を勤めたいので。村々一同願い上げる、私ども連判をして差し上げる、八か村の連印、
天明辰年(四年)閏正月、

その村々の夫食の願いについて伺ったところ、このたび御下知(げじ、指図)が仰せ渡され、これによって右の代金を渡したので、名主・組頭・百姓代は印判を持参して、来る二十八日の朝十時に罷り出ること、この書付を早々に順次送って達して留め、村よりかえすこと、可相返候、八か村連状、閏正月廿三日、御役所、
 
  (改頁)
 
天明四年卯年(卯年は天明三年)の凶作につき、五か年賦の御拝借割合帳
甲辰(きのえたつ、天明四年)二月、神戸村の割合
一分 借主 清右衛門、受人(うけにん、請人、保証人)重四郎・左一右衛門
一分 借主 喜三郎、受人 十四郎・亀右衛門、
二分 借主 文六、受人 十四郎・政五郎、
一分 借主 久内助、受人 十四郎・佐一右衛門、
二分 借主 政右衛門、受人 忠兵衛・藤次郎、
一分二朱 借主 民右衛門、受人 忠兵衛・幸助、
二分 借主 吉五郎、受人 友右衛門・儀右衛門・惣五郎・文七、
 
  (改頁)
 
二分 借主 市之進、受人 友右衛門・十四郎、
一分 借主 定五郎、受人 友右衛門・十四郎、
二分 借主 しほ、受人 平右衛門・幸助、
一分 借主 庄五郎、受人 十四郎・金助、
一分二朱 借主 金左衛門、受人 藤三郎・忠次郎、
一分 借主 与右衛門、受人 忠兵衛・兵二郎、
一分 借主 伝之丞、受人 藤三郎・友右衛門、
〆て金五両、借主十四人
卯二月、御役人中
天明四辰八月
夫食の御拝借、五か年賦
金二両三分二朱四匁二分、
 
  (改頁)
 
為銀百七十六匁七分、うち、六十匁を新田観音堂の奉加(ほうが、造営などに財物を寄進して助成すること)に遣す、これは郷中四十七軒ニに割り、一匁二分七厘六毛、五か年に返上、一年一軒分は二分五厘五毛宛て、残り百六十(ママ)匁七分を拝借、これは郷中四十七軒に割り、一軒分二匁四分九厘、五か年に返上、一年一軒分は四分九厘八毛宛て、
天明のときの村々の三役人は次のとおり、
水代村 名主 佐左衛門、組頭 権之丞、百姓代 四郎右衛門、
上神林村 名主 伊右衛門・佐左衛門、組頭 庄助、百姓代 松右衛門、
 
  (改頁)
 
下神林村 名主 庄之助、組頭 伴右衛門、百姓代 藤蔵、
二子村 名主 吉右衛門、組頭 平兵衛、百姓代 忠次郎、
小又村 名主 儀左衛門、組頭 源三郎、百姓代 市郎右衛門、
今村 名主 次郎左衛門、組頭 九右衛門、百姓代 忠左衛門、
神戸新田 名主 栄蔵、組頭 粂右衛門、百姓代 常右衛門、
 
  (改頁)
 
神戸村 名主 重四郎、組頭 幸右衛門、百姓代 友右衛門、
右は、この年の申年(天明五年)が凶作につき、書付を調べたところ、端紙などにしかと書き留めてなかったので増記した、
天保七申年(天明七年は未年)、
神戸村の困窮の者、茂右衛門・忠兵衛・れん・ふじ四郎後家・常次郎・嘉助・新左衛門・弥市・おかね・清三郎・亀吉・勘吉・八右衛門(この者は作をせず、馬のあみを拵えて売る)・藤吉・いち・庄八・新内・伝右衛門・忠太郎・辰吉・庄左衛門、
 
  (改頁)
 
ついでかなり困窮の者、主計(あらいへもち)・磯右衛門・同人倅文蔵・房右衛門・助五郎    兵左衛門・源蔵・松右衛門・乙吉・与二右衛門・勘左衛門・八弥後家・源五郎・定吉・安左衛門・源四郎、
ついで相応に暮している者、嘉蔵・源兵衛・嘉右衛門・万五郎・文左衛門・市郎右衛門・政吉・諌右衛門・七右衛門・文右衛門・惣右衛門、
救い出した者、藤三郎・何右衛門・仙蔵、
ほか、役人のうち、定三郎・十四郎、相応に暮らす、
我らは、貧閑と申す者で、商いもせず、籾も来年
 
  (改頁)
 
の出来は、秋を見て挽回し、貸し借りもなく暮らしている、
穀に綿はつつくものとかや、「よりこ」は段々と高直になり、木綿をとる者もなく、相応に暮らしている者は、、夜着は布団の中綿などに遣って糸を拵えるほどになる、「よりこ」一壱把五十七匁くらいの目方で、一朱四十八文、村中で木綿をとる者はまれでほとんどいない、前書にも書いたとおり、金は山ほどに積み置いてあっても、飢えたときには食べることはできない、寒いときに着ることもできないものだと、このことを始めて身に染みて感じる、
食事の工夫のみをしていて、雑炊・粥を交ぜるものなどに、
 
  (改頁)
 
女性はかかりきりで、ほかのことはできない、食物に加え入れてもよい物で、前にもれた物を記す、
〇小糠(こぬか)の中へ豆を入れて引き混ぜ、柿を入れてた柿餅はよい、凶作の年には柿もできない、
〇渋みドングリ餅、ドングリの皮とともに水に浸してから干して、臼で挽けば、皮と渋がともにおちる、そのうえで茹でて用いる、
〇雑炊、味噌で粥を炊き、大根菜などを入れるとよい、
〇粟糠の中へ豆を炒って混ぜ、香煎(こうせん)にするとよい、
△拵置いた乞食を通す、
粟糠(ぬか)一俵五匁で、諏訪の人が買う、
 
  (改頁)
 
一、麦の粉と蕎麦の粉に、きらず(豆腐のしぼりかす、おから)を入た焼き餅は、きわめて上等だ、
一、粟餅に「きらず」を搗き混ぜたものもよい、
一、「こがみ」の根を山家(やまべ、松本市)で食べる、毒があるという、
〇七月中の頃に違作と思ったら、菜や大根をたくさん蒔くとよい、菜ほど結構なものはない、百連採れば、一連を三日もつかえるので、三百日の足しになり、かこいに手間はいらない、
一、大根を細かに切り、飯に炊いてまぜると、たいへんよい、
一、豆腐の作り方は、前に記した、三升で豆腐十二丁、きらず(豆腐のしぼりかす、おから)が一斗ほどある、
 
  (改頁)
 
この申年(天保七年)は、季節によっては、大しけ(暴風雨が続くこと)の年で、雨天がちだった、木曽川(現在の奈良井川)は水も清こともなく、以前は、二子(ふたご、松本市笹賀)の村は干潟になったが、その年はいつでも水が深く、早稲の稲も実りがわるく、七月三日、四日頃の寒さのときには、ぬのこ(木綿の綿入れ)を着ていたほどだった、小雨が降り、そのため稲が実入りせず、さらに出穂の頃の雨だったので、最悪となった、大風が吹いても、稲穂はたおれることもなく、ススキのようだった、アタリイネ(よくできた稲)は早稲飛〓 で、これを作ったものは、平年並みの出来だった、「にら早稲」「一ばい餅」「越後しらバ」は、この年の寒さで、これらの稲は、
 
  (改頁)
 
実入りすれば、以前の暖かかったときとちがって多いかどうか、田の水のかけ引きを工夫すべきだ、
濃州(美濃国、みののくに、岐阜県)より出た「晴雨考」に書かれているのには、「飢民が草木葉を食べるときは、塩を多く用いること、塩がなくて毒にあたったときは、塩を食べれば治る、毒が強く身体中に浮腫(ふしゅ、水腫)ができたら、五加伎(ウコギ、)の根を掘り、水で煎して飲めば、浮腫はひいていく、ウコギは薬店にもある、
 
  (改頁)
 
天保七申年の御上納のこと、七月九日に役所へ罷り出て、御下げ金、去年の未年(天保六年)御直段、三か所平均で金一両につき米九斗一升五合、これは高い直段なので、郡中より江戸表へ仰せあげられるように、役所へ願い出たところ、御引き下げが叶った、もっとも、十か年平均、文政九戌(一八二六)より天保六未(一八三五)まで、金一両につき一石一斗八升四合一勺二才、この御引き下げにつき我らの分で二朱三百十七文が返る、七月十二日に取る、
 
  (改頁)
 
申(天保七年)検見帳〆、
反別合十二町八反九畝二十六分、この高は二百三十一石三斗四升三合七勺
惣毛揃い、一反五畝分(三合毛)、三反二畝二十分(二合毛)、二十五反六畝八歩(一合毛)、九十八反五畝二十八歩(皆無)、
申十月十一日初納、角之丞の分
一両一分を初納、十一月六日より年貢割り、当年の御引き八割六分余、元田米高は百十四石一斗一升三合が定め、九十八石一斗四升三合を御引く、
 
  (改頁)
 
残り十五石九斗七升を上納、米一石につき、八斗六升をかけ、八勺二才過ぎ、小前寄せ米五升余の過ぎがあり、引き米を元田高にて割れば、何割引きと知ることができる、
十一月十二日
一両一分四百四文を初に納め、二貫に百五文が伝馬国役、足役諸掛り、
〆て一両一分二貫六百九文、右へ一両一分が初納引き、三貫三百六十八文が伝馬勤、四両三分二朱六十八文、助郷惣代取かえとも、
小もって六両一分二朱、三貫四百三十三文、
差引五両二朱八百二十四文を、役元より同十三日に受け取る、
 
  (改頁)
 
上納一石に四十匁三分をかけ、伝馬国役二百四十八文かけ、
申三納差し引き、
二分二十八文(上納)、二貫九百八十四文(夫せん川除け)、六百六文(野山手定夫)、三十一文(宗門掛り)、三十六文(くわ掛り)、七百八十三文(検見入用)、〆て金二分、銭四貫四百七十六文、
このうち、引きの分、二百文(川除け人足二日分)、二貫八百三十文(松本勤そのほか)、一両二分七百六文(宮へ取かえ元り)、
小もって一両二分、三貫七百三十六文、
 
  (改頁)
 
差し引き三分二朱百八文(役元より取るべき分)、川除け(かわよけ、堤防を堅固にして川水をせきとめること)の入用、夫せんへ入れれば、三十三石を名主役へ引き入れ、
不道理、おって割るべく、
川除け掛り、九十一貫八百五十六文、うち五十六貫九十三文、公儀より下る、
当申(天保七年)、三納一石につき、十五匁五分ずつ掛り、
夫せん 三百三十六文掛り、野山手一升代七十一文、宗門一人七文九分、くわ一丁二十四文、検見一石につき百六十六文掛かる、
三納進出分計〆、二両三分二百八十五文、
 
  (改頁)
 
天保八丁酉年(一八三七)
年徳あきの方、亥子の間、大筋、
当酉年は、みな田方はよかったが、木曽川(奈良井川)に掛かる田方は旱魃で不作のため、御検見入りを願うほどで、流末の村々は大不作、畑方の大豆など凶作、粟稗なども凶作、前年の村は一札にて年の暮がつまる、
 
  (改頁)
 
同年の日記のうち、
正月十九日 水油一升の代七百文
二月二十九日 塩一俵の代二分、うち百文ぬけ、
三月五日 金一両、
伊勢久保倉様の玄関で、洗馬(せば、塩尻市)の新右衛門が気の毒の由を申し、丸山家みんなで寄附したいと申し、何右衛門・藤三郎・仙蔵・定之助・角之丞が、新右衛門にて加入した、
 
  (改頁)
 
四月十日頃 油粕一駄 金一両につき二十六貫目、よりこ一把六十匁・代一朱、
七月十二日頃 酒一升五合代七百二十七文、
九月二十五日頃 三百七十二文、綿一把につき、
十月払い 上まいくさ種、一分につき六升、
 
  (改頁)
 
同年の実入方
大麦五俵ほど、小麦五俵ほど、種一石五斗ほど、

粟十俵余、籾三十俵余、小豆一斗、大豆〆七俵一斗、
これらは手作り取り、
 
  (改頁)
 
同年四月八日頃、穀相場が高直ニになる、
金一両につき小麦三斗、同じく大麦三斗五升、同じく米二斗、同じく粟三斗五升、
四月 この節、房右衛門へ米一駄を売る、その代三両二分二朱、百七十八文を取る、
四月 小麦四斗二升を売る、今井源次郎へ、
四月 一両一分二朱取る、
(改頁)
大麦四俵を忠兵衛へ売る、目方、十五貫七百匁、十三貫八百匁、十四貫七百匁、十五貫匁、この代三両一朱取り、
八月六日頃 金ばんにtr、米八斗、この代二両になる、
八月七日 金一両につき、金ばん三斗九升かえに売る、
 
  (改頁)
 
丁酉(ひのととり、天保八年)日記のうち、
元日は穏やか、二月十三日には大風で、こやせついん屋根が吹きめくられる、
二月十八日に松本殿様の御逝去の触れ、実は、当三日夜に御落命のよし、御戒名、神竜院殿従四位下前丹州大守大光啓雲大居士神儀、
 
  (改頁)
 
二月二十三日に寄合あり、夫食の願いが、村方の困窮者から願い出たので、村方のうち小前(こまえ、小百姓)にも相応の者は差し出すように一同救うように申すべく申し聞かしたところ、役人より救ってもらいたいので、まずは見合せ申すべく、とくに難渋の者は、近隣で救うようにと述べる、
三月四日、殿様の御葬式が全久院で、それ夫より清水の御塚に葬る、
 
  (改頁)
 
三月五日頃に日々陰日(かげび、忌日)になる、
三月八日 江戸より大坂騒動について申し参る、
三月九日より角之丞が病気、二十二、三日頃に大病、二十七、八日頃より少々快方にむかう、時疫(じえき、流行病)のようだ、
四月二十六日 「乞食」一人が当村で煩い、二十四日の晩に亡くなり、宮の南に仮小屋をつくり、御役所へ御届け申し上げる、もっとも、書付に、その節の記録に委細を汁うしてある、
御役所より御出張、
 
  (改頁)
 
飯尾清之助様と江崎善十郎様、このときの名主は藤三郎、
四月二十九日頃に、とかく曇ることが多かったためか、茄子の苗そのほか多くの野菜が大きくならず、この間、塩尻の「いちょうや」に参って話したところ、塩尻から諏訪までのうちで餓死した者が十一人ほどあり、あまりにもたびたびぼことなので、御届もせず、皆を堂へ、穢多に埋めさせたという、
(改頁)
まことに恐ろしいことだ、二子や小又あたりにも餓死した者が何人もいて、行き倒れの者だ、この時期には奉射人(放赦人、釈放された囚人のことか)も盗などをし、村端へ番小屋をつくって入れることはなかったが、忙しくて出来ず、乞食も皆青ざめ、台所へつうずくまり、ねだることが際限もなく、香煎(こうせん)などを作って置いたが、続かずにむごいことだった、
五月一日頃は、とかく薄曇り、乞食の者たちは、しだいに巧者(こうしゃ)になり、相応の乞食も同様にねだり、誰が空腹の
 
  (改頁)
 
乞食やらわからないので、責める、
五月二日 公儀よりの拝借金を村方へ割賦遣わす、
五月八日 山の麓まで雪が降る、寒い西大風で我らは不快で、かえって扇子をひろげたところ、高砂の画があった、「床あげに 開く扇は 高砂や このうらふねに 松につうるう」
 
  (改頁)
 
早乙女(さおとめ、田植えをする女)が、去年までは一人百四十八文もとっていたが、凶年のためか、先より何人も来て、一人四十八文ずつ、
二十三日 私より困窮の者へ、籾をみ少々遣わす、さきごろ私が病気中に世話になった者、常三郎・五郎助・ふじ四郎後家・茂右衛門・文蔵・お連ん、
この時期、大照り(旱魃)のため御私領田方が干し揚り、新田堰も干し揚った由、
 
  (改頁)
 
二十七日 大雨で水たくさんにある、新内と申す者の家内が疫病を患い、女房はさきに亡くなる、
六月十六日頃、またまた々水きれ(氾濫か)、大川筋の見分、
六月二十一日 分水口へ土塁を掛ける、御出役は藤江継太夫様と江崎金一郎様、
六月二十二日 角之丞が御役所より扱い仰せ付けられ、小又村と高出村(たかいでむら、塩尻市)へ掛る、馬荷物の出入りについて、
 
  (改頁)
 
七月十日 小又へ御出張、水不足につき大番(おおばん)にしたいので、四か村から願い出たという、
七月十六日頃 たいへんい照りが続き、雨気がなく、前栽(せんざい、庭先の草花の植え込み)へ毎晩水かけ、手桶で水をくみ、田方も穂がよほど見えてきたが、地面は八角に割れた、
七月二十日 またまた上郷へ水かりになった、
七月二十一、二十二日 四月以来ようやく雨になり、分水口の番をやめる、
 
  (改頁)
 
八月二日頃 米の直段、玄米一両につき四斗くらい、
八月五日 あちこちの川が出水、大雨、
八六日 米一駄二両で売る、
八月九日頃 ようやく水がたくさんになり、水車がまわる、
九月二十六日 洗馬中ほどから北がやける(日照り)、
九月二十七日 伝馬助郷村の血判を贄川でおこなう、のちに血判を御返しになり、このときに引き伸ばしとなる、
 
  (改頁)
 
十月二日 川原に女性の乞食の死人があった、九日に御検見、御宿は藤三郎方、その日の晩六時に何右衛門の母が亡くなった、十一日に葬式、麒山〓麟長姉、俗名よね七十七歳、
 
  (改頁)
 
十月十七日 前に書いた助郷村の血判は、贄川宿へ尾州(尾張藩)から御小人目附が御出張、御取りなされた、このとき名主の藤三郎が病気だったので、おっておこなうこととなり、この血判後に御帰りになった、
十一月二十四日 定三郎の娵が、踏入村(ふみいりむら、安曇野市豊科)より来る、同四日、千蔵の娘よね、三溝九兵衛孫、娵に遣わす、
 
  (改頁)
 
十一月十日 藤三郎の退役御免の願いが叶う、角之丞・定三郎、
同十一日 嘉蔵方の酒屋改め、後藤太八様と川井一作様、酒道具を封印、
同十三日 新内方より角之丞へ召し抱えている丑之助が来ないので、そちらへ行ってみたところ、親子で出奔(しゅっぽん、逃げて行方をくらますこと)していた、
同十四日 同人の世話をする、
十二月二十三日 定三郎が名主役を仰せ付けられた、
 
  (改頁)
 
十二月二十四日 私に御差し紙(出頭を命じた書状)、御私領御役所へ召し出され、高出一件の取り扱いの件につき、御褒美として金百疋(一疋は二十五文)を下し置かれた、
十二月二十八、二十九日頃、暖かくなって、川筋があいて水が流れる、
これまで丁酉(ひのととり)の年(天保八年)の日記、
 
  (改頁)
 
天保八丁酉上納、去る申年(天保七年)の御直段三か所の平均が、六斗五升七合五勺のところ、一石二斗九升七合八勺七才、願いにて叶う、御上納御割返し、村方へ九両一分五匁八分が下る、私の分は一分と九十二文が返る、九月二十七日に下る、十月二日に割返す、
十月十二日 一両一分(酉初納)、
 
  (改頁)
 
十一月十二日 二両二分二朱(酉初二納)・三百七十二文、九百四十文(御検見入用)、六百七十文(用水懸り)、五百五十一文(畑掛り)、五百四十一文(野山手足役)、
〆て二両二分二朱三貫八十二文、このうち一両一分初納引き、三貫九百八十二文(いろいろ取りかえ引き)、
残って一両二朱と七百七十二文、右へ一両一分遣わし、差し引き、
 
  (改頁)
 
酉(天保八年) 二分四百十六文(三納)、四貫六百三十一文(夫銭)(ぶせん、夫役・ぶやく・のかわりに納めた金銭)、六貫四十三文(伝馬掛り)、四十四文(宗門)、七十七文     (くわ掛り)、〆て二分
十一貫二百二十三文、右へ、十四貫五百二十三文(伝馬勤め)、五貫四百文(松本町用)、差し引き三分三百二十九文が返る、ほかに三貫六百八十三文(取りかえ雑用)、
二口〆めて一両一分一朱、二百四十六文、
 
  (改頁)
 
天保八丁酉(一八三七)改め、
松本御預役所御役人・御奉行
関清九郎様(三軒屋敷)、玉川助之丞様(土井尻、どいじり)、柴田七郎兵衛様(土井尻)、近藤孫太夫様(小柳町)長谷川是悲之助様(土手小路)、野瀬覚兵衛様、
 
  (改頁)
 
郷目附
山田林八郎様(西町)、成瀬竜助様(上下町)、関口重左衛門様(御堂町)、貝谷張内様(上下町)、高木此右衛門様(下之町)、三輪幸七様(西町)、朝比奈門蔵様(御旗町)、乾平市様(東ノ町)、山口又五郎様(御徒町、おかちまち)、後藤太八様(御旗町)、
 
  (改頁)
 
成瀬鹿右衛門様(御徒町)、松木綱右衛門様(中ノ町)、川上一作様(御堂町)、鈴木作之丞様(御旗町)、山本九右衛門様(御旗町)、辻小平太様(口張町、こうばりまち)、藤江継太夫様(宮村町、みやむらまち)、北川五郎左衛門様(西町)、殿村喜太助様(御堂町)、都筑英助様(小池町、こいけまち)、石槫妻右衛門様(御堂町)、
 
  (改頁)
 
林薫内様(中ノ町)、上条与市様(東の町)、飯尾清之助様(西町)、成瀬熊之助様(上下町)、渡辺太郎太夫様(上下町)、江崎金一郎様(御堂町)、中村作右衛門様(東の町)、小平文平様(御堂横)小田善之助様(西町)、中田万次郎様(下之町立)、乾与三次様(東ノ町)、樋口右市様(御堂町)、
 
  (改頁)
 
市橋円太夫様(西町)、西川清一郎様・山本清蔵様(知るにまかせる)、
天保九戊戌(つちのえいぬ、一八三八)年、年徳あきの方、巳午の間、
 
  (改頁)
 
全部で三百八十四日、
日記の部
一連くらい(柿一把)、
正月 よりこ(一把)、代二匁八分六厘、
二月 よりこ(二把半)、代二朱、甲州紙(一状)、代一匁四分五厘、紙類の値段が高い、
四月一日 塩二俵、代三分五百十九文
 
  (改頁)
 
四月 里芋の種一升五合、代百四十八文
四月十七日 石ばい(灰)一駄につき代一朱と百三十八文、
四月二十七日頃、酒三升、代七百七十二文、
四月二十八日 早乙女六人、一日分の代七百四十八文、
五月頃 油一本、代四十四文くらい、
八月 綿一把、代三百七十二文くらい、
九月頃、水油一升 代五百五十文、
 
  (改頁)
 
九月頃 塩一俵 代二分一朱二百二十四文、
十一月頃 水油一升 代六百五十文、
 
  (改頁)
 
天保九戌年の収穫
大麦(十二俵二斗)、小麦(三俵ほど、大不作)、 小豆(五斗あまり、豊作)、蕎麦(二俵二斗五升)、粟(十二俵ほど、違作)、籾(三十七俵ほど)、大豆(十俵三斗ほど)、
 
  (改頁)
 
相場
三月 種一両につき四斗六升換え、
三月二十三日 小麦一両につき五斗換え、
大豆八斗につき代一両一分一朱、百三十八文、大豆一両につき六斗八升換え、
 
  (改頁)
 
七月五日 種一両につき六斗三升換え、
七月十一日 餅白米一両につき五斗五升換え、大麦一両につき一石三斗三升換え、
九月十五日 玄米一両につき金升四斗八升換え、
 
  (改頁)
 
十月十九日 玄米四斗、二分三朱一分二厘取り、相場一両につき五斗八升換え、
(改頁)
天保九戌年の日記
元日、風少し吹く、「去冬くさひ ちり吹払ふ 今朝の風」、「松風や 礼人の先へ祝こと 右一笑庵 識印」、
三月七日 出川(いでがわ、松本市)成敗場(せいばい場、刑場)に、女の磔があった、はりつけあり、これは宮本和兵衛の娘とく、委細はその年の日記に書いてある、
 
  (改頁)
 
三月十日早朝、江戸西の御丸御焼失、縁の下ヘ一面火が廻り、御丸中残らず焼失、
三月十六日の夜、村方の定吉・庄八、焼ける、
三月二十二日 御屋敷へ先日、鴬菜(ウグイスナ、小松菜の別名)を差し上げたところ、礼として短冊を下さる、「いかがしてかく作りなせしぞ、いともよくいとものびたり、「鴬菜 雪の中なる 春のたまもの □□□」、
(改頁)
四月二日 私の覚え、惣代に頼まれた道見分に出る、御出役は飯尾清之助様、委細は書留に詳しく書いてある、
四月八日 右一義につき、二子(ふたご、松本市笹賀)の市郎右衛門ともに佐久郡へ出発、聞き合いに行く、十二日の夕方に帰村、
四月二十四日 このあたりの御巡見が御通行、
四月二十七日 茂右衛門が亡くなる、二十八日 嘉蔵が亡くなる、同人の女房も煩う、
 
  (改頁)
 
四月二十九日 私が西ぐね境の改め、藤三郎と角之丞の二人で石を立てる、
閏四月四日頃に照る、苗間の水をやっとかける、
閏四月六日、この日のお天道様(太陽)の赤いことといったら、御かげが夕方まで赤かった、七日早朝もお天道様が赤い、夕方になって霞のように如曇る、
十日 大北家内もめ、小屋村(こやむら、松本市芳川)の次左衛門と上神林の元右衛門
が立ち入り、七百五十両を藤二郎へ遣わすことで片付く、委細はこのときの日記に書いてある、
 
  (改頁)
 
閏四月十二日に藤三郎が亡くなる、十四日に葬式、戒名は、天規道範長士、
閏四月十七日 大照りで、霜が降りる、麦が霜に逢って穂が白くなった、湿りのないところに霜がおりたためか、この時期に村方に病人があった、疫癘(えきれい、伝染病・流行病)に罹った者は、嘉蔵女房・文蔵世倅・兼二郎・忠兵衛世倅・源兵衛母・藤市郎内・
(改頁)
常二郎世倅・清三郎、これらの者がみんな煩った、
召使いの定吉がよくないので、彦右衛門の倅とも相談し、米一札を内に遣わす、小坂(おさか、東筑摩郡山形村)の者、
二十二日 小又へ行く、高遠様御上屋敷が御焼失、小又にて三百両を御貸し渡す、
閠四月二十四日 四時に藤市郎内が亡くなる、二十三歳、二十六日に葬式、温室貞良長姉、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏、
 
  (改頁)
 
五月一日 近々、田植えが終わる、
五月二日 源兵衛の婆が亡くなる、
五月三日 美濃(みの、岐阜県)の者、新田の境で亡くなっていて、立ち会って埋葬する、五月十二日頃 曇り、とかく涼しい、
五月十三日 五郎助の祖母が死ぬ、この時期、大麦一両につき一石五斗になる、当村に流行っている病人は、静まりそうもない、
 
  (改頁)
 
五月二十日 先だって木曽の贄川で血判の書付、木曽十一宿(中山道の木曽の宿は十一)ばかりで、あとは御帰えしになられた、
五月二十一日 又蔵が何右衛門方より金三両を借り、煎じた金水を飲んだが、亡くなった、四十二歳、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏、
五月二十八日頃 けしからぬほどの厳しい寒さ、朝顔も開かない、朝かほ
 
  (改頁)
 
六月三日 疫癘は、あれからの地も静まらないため、松本の本町(ほんまち)遠州屋にいる津嶋御師(おし、祈祷に従う神職)の手代を頼み、宮々の神前を飾って祈祷をした、新田ともに寄り合って、おこし(興し、糯米や粟など蒸してから乾かして煎ったものを水飴と砂糖とで固めたもの)を作り、両村でおこなった、この御師手代は、村方の若物たちと村を廻り、病家ヘ立ち寄り、それから小又の境へ送り出す、両村同人が立ち会い、
 
  (改頁)
 
家々の御札守りを与える、ただちに門に貼る、まことに厳重に見える、この時期の病人は、儀右衛門よめ・忠兵衛女房・助五郎娘・清三郎家内、そのほかの者はおいおいよくなっている、この間の両三日は大暑、そのほかは隠曇、江戸から五日に出された書付では、麦作などはよいと申してきたが、またこの時期六月になっての書状には、江戸も日々
曇り雨が降り、自国は察するなどと申し参る、
 
  (改頁)
 
当村の千蔵が、木曽で白米一両につき五斗で売る、この年は、梅がなったことを私はこれまで覚えがなく、家々の梅の木の枝はなりただれて買う人がいない、町方では百文につき一斗三升などと申し、垣やそのほか村々の道端でも乞食も拾わない、近隣の子守も貰わず、まことに珍しいことだ、桃もなる、その払底で高直だ、
 
  (改頁)
 
小束一把百文
六月十五日頃 梅や杏(あんず)がさかんに熟れる、花盛りに大霜が降り、花が皆萎れてしまったが、いたまないか心配になる、
一、この間、天気がすぐれない、
木曽山へ公儀より御出張、大木を伐って荒れているとことを申し触れた、
六月二十一日 大北の家内の件については解決し、藤二郎と藤市が御役所へ申し上げた、
 
  (改頁)
 
六月二十五日 南内田(みなみうちだ、塩尻市)の文左衛門の母が亡くなり、同日夜に葬儀、大雨のため家の中で引導をわたした、
先ごろの御祈祷割を七月八日におこなった、山本三郎右衛門手代毛利善左衛門、二両・津島御師、二朱・村神主、一分二貫八百九十三文、〆て二両一分二朱、二貫八百九十三文、神戸が五十六軒で一両二分六百二文、新田が四十四軒で一両二朱七百六十七文、
 
  (改頁)
 
右のとおりに割合した、厄病がだんだん静まってきた、
七月十三日頃 とかく涼しく日があたらない天気だ、
七月十五日 公儀より御触れ、金銀の金具・かんざし・笄(こうがい、髪をかきあげるのに用いる)の類は、商人が仕入る分は、今年限り、来る亥年(天保十年)より御停止(ごちょうじ、禁止)の旨の御触れがあったと、御役所より御触れ、村々への願いがさしせまってはいても、できるだけはやく達するように、
四九(しく、めくりカルタでするばくちの一種)の御用日、
 
  (改頁)
 
罷り出るべし、もっともこのたびの出勤日と休日は、二日、七日、十二日、二十二日、二十七日、
退役・関清九郎、退役・近藤孫太夫、転役・玉川助之丞、転役・柴田七郎兵衛、御預郡奉行・古橋金右衛門、御預奉行・神尾喜作、右のとおり仰せつけられたので、村へも申し達すこと、もっとも願いのため、
 
  (改頁)
 
罷り出る必要はない、
七月十四日 北の藤右衛門隠居、今年戌(天保九年)に八十四歳で、い(戌)のござ(茣蓙)を織って、私の家に遣わされた、狂歌でお礼を申した、「八十四歳にならせ賜ふ 人の蓙を織送り 給ひしを 世に稀やまだ 幾年も 幾年も 達者にまめで ござなさるらん」、
十五日 このあいだ、源蔵女房取のほセ、いろいろな無駄言(むだごと)を言う、
 
  (改頁)
 
七月二十四日 このあいだから大庭(おおにわ、松本市島立)の「おりん」の様子がおかしく、このたび親子が御目見のため、家が留守になったので、「お石」を遣わした、
二十五日頃に大北藤二郎、隠居屋へ送り入れたが、とにかく小言をいっている、
七月二十九日頃 稲の穂が垂れてこないので、百姓達は心配している、稲穂が早すぎ、粳籾が見える、
うるちうるもみ見へる
八月二日 瑞松寺(ずいしょうじ、松本城下の寺院)和尚が遷化(せんげ、死去)、
 
  (改頁)
 
三日 出穂の御見分、御弁当、
八月五日 藤二郎がまたまた願い出て申すには、候処、小又(こまた、小俣、松本市笹賀)の又兵衛が、長興寺和尚にかかり済み、
八月六日 大霜で、豆の葉がゴリゴリとするほどに霜が降る、
八月二十一日 御巡見の勘定の片付のため、会所たるや、これまで数日にわたって罷り出る、
八月二十三日 松本の殿様より仰せ出される、大倹約のお触れが、御私領と御領へ
 
  (改頁)
 
あった、はりばこの類い、松本に居なくなった、
九月二日 実法御見分、殿村喜太郎様・石槫妻右衛門様、村役人が検見を願う、
九月七日 瑞松寺の檀家じゅうに振舞があり、角之丞が行く、
九月十日 瑞松寺和尚の葬式、藤三郎と何右衛門が行き、一朱ずつ香奠(こうでん)、
 
  (改頁)
 
九月十三日 藤三郎が百姓代を仰せ付けられる、藤市郎こと、
九月十四日 おいおいと御巡見の割合金子の配当が済む、
九月十五日 藤三郎の役祝いをした、
九月二十八日 御検見御奉行・長谷川是悲之助様、御手代・三輪幸七様・殿村喜太郎様・小平文平様・原与一様、
 
  (改頁)
 
しめり(適度の降雨?)、ほいろ(焙炉?)にかける(乾燥させる?)、籾一合け・七合九勺、一合け・一升七勺、
九月三日 藤三郎・何右衛門・仙蔵御に差紙(さしがみ、御召状)があって出る、金二百疋・藤三郎殿、両人御賞詞・何右衛門と千蔵、仰せ聞いたところでは、さる酉年(天保八年)の米価が高騰したときに、高直之節、米金そのほかを施したことを奇特として、
 
  (改頁)
 
御老中水野越前守様の御沙汰をもって、御勘定奉行内藤隼人正様より下されるとの旨を仰せ渡された、御賞詞も同様である、
藤三郎の御褒美のお祝いをした、公けからの御褒美を祝して、「丸山の慈悲(ナス)ことの武蔵野に (タカ)く聞へ亭 (ヤマ)のたまもの 一笑庵」、
 
  (改頁)
 
また、藤右衛門隠居、安久へ祝い遣す、伜三人、このたびの御賞詞のあることを、「富ハ家を潤す 徳者身を潤す 徳〇何れ 〇千里に 〇左ても聞ゆらん 高くほまれのあるを 身三子 右 一笑庵」、
 
  (改頁)
 
何右衛門・千蔵・塩尻左市、頭字(かしらじ)を入れて、
十月二十二日 新田の観音堂の晩鐘つきはじめ、当村からも役人はじめ行く、
代金三両一分二朱、松本の「よねや」で求める、もとの鐘は盗まれてしまった、観音堂で餅・吸物・酒、当村長照寺の住持徹宗和尚が拝み、つき初め、新田の与右衛門七十五歳、「我等 右はんしやう(半鐘) つきぞめを侍る
 
  (改頁)
 
観音堂晩鐘 つきぞめを 信心の力に響 かねの声 つくたびことに 寝たり起たり」、
十一月三日 小又へ私が行く、白板(しらいた)東で男子が生まれたことを祝って寄せる、「折井大人玉のおの子を設給ひけるを 千鶴万亀かぎり なく御悦ひあらんことを 一笑庵」、
 
  (改頁)
 
「福縁を(ナス) 善慶や 是見(タカ) 家の根嗣の(山)のたまもの」、
十一月十一日、酒屋改めがあり、八蔵の酒道具を封印、御出役はこの日の晩に御泊り、小平文平様・江崎金一郎様、
 
  (改頁)
 
十一月十三日 酒道具預り、書付を親類と合わせ、、惣代より印形を取る、
同日 村方の「れん」が内田にいて亡くなった、神主市之進の娘、絶家になる、
十一月二十一日 右の酒屋の八蔵の御呼び出し、手錠、
同月二十五日 神林の立花に行く、神林元右衛門殿の妻が病気、無駄ごとを言う、同人養子の成次へ今井忠左衛門方より娵入り、この病気のため延期、
 
  (改頁)
 
十二月十七日 伊勢の御師来る、暦・御祓 ・手紙・伊勢奉加を受け取りに来る、
請書 金五両也 右の金子(きんす)、このたび当家玄関普請料のため、御寄附くだされ、忝く(かたじけなく)、目出たく受納したいので、御厚志ありがたく、
 
  (改頁)
 
今後、御子孫長久、御繁栄を怠慢なく祈念していく、よって受書、件(くだんの)ごとし、天保九戌年(一八三八)九月 久保倉但馬、家来・井酉卯兵衛、信州神戸村 丸山仙蔵殿・丸山定之助殿・丸山角之丞殿、
 
  (改頁)
 
十二月十九日晩 惣七女房が吉田で亡くなった、当村の長照寺の檀家なので、二十一日の晩に寺の浦へ葬る、
十二月二十三日 村方の八蔵が、酒造の件でお咎めが許された、
戌年(天保九年)上納方覚
 
  (改頁)
 
当時角之丞持高 田高〆四石七斗三升四合、この米二石三斗四升八合七才、畑高〆四石一斗五升六合三勺四才、この米一石六斗一升六合一勺二才、田畑〆八石八斗九升三合四才、米〆て三石九斗六升四合壱一勺九才、四合七勺ほか村上納め、去る酉(天保八年)四納、七月十八日納め、
一、一分二朱二百七十四文、村方一件雑用、泊り日帰り、〆て三貫三百八十八文、ことに絵図認見分、一朱二百文、三百五十六文、四十八文、
 
  (改頁)
 
惣〆て二分二朱百七十二文、七月十八日に御上納にて差し引き取り、角之丞天保九戌年九月九日 御巡見村割
一、八両一分二朱二百二十六文、みな銭で五十六貫九百四十八文、
一、十貫六百四十八文、村包まい
二口の貫〆め六十七貫、〆めて八百二十二文
この割り、高三百七十二石八斗四升四合九勺五才に割り、一石につき八十八文をかける、
 
  (改頁)
 
御巡見惣代御共の取り代え、角之丞が取るべく申す、
一、金四両 銭四百十二文 取済 村割へ掛り、私が申し出る、
九月九日 三朱三百四十二文出る、
十月十二日
一両二朱 戌(天保九年)初納、二両七百六十七文 戌初二納、八百二十八文 検見入用(検見にかかった費用として)、四百七十八文 野山手(のやまて、山野入会料?)、〆めて二両一分三百七十七文、一両二朱 初納引、二朱二十四文 検見別取りかえ、残り一両三百五十三文、十一月十三日に納める、
 
  (改頁)
 
酉(天保八年)皆納、十二月十日に納める、
二朱二百三十四文 酉六納、三分二朱六百六十一文 戌(天保九年)三納、四貫百五十四文夫銭、二貫三百二十文 伝馬掛り、百四十六文 宗門懸り、四十七文 くわ懸り、
〆めて一両七貫五百七十五文、このうち四両五百八十八文が伝馬勤、五貫九百六十八文が雑用勤引き、三貫文が組割り分取り、小計で十三貫四百八十六文引き、残り二朱と三十七文、
十二月二十八日寄せ、
十三文 拝借年賦を納める、
十二月三十日
一分一朱二百三十二文 役元より取暮割の分、詳細は日誌に書いてある、
 
  (改頁)
 
天保九戌年の村々役人
水代村(名主 佐左衛門、組頭 伝兵衛、百姓代 常蔵)、上神林村(名主 治左衛門・佐左衛門、組頭 久米右衛門、百姓代 庄次郎・元右衛門・松右衛門)、下神林村(名主 伴右衛門、組頭 吉郎次、百姓代 吉郎左衛門)、二子村(名主 文右衛門、組頭 助左衛門、
 
  (改頁)
 
百姓代 十郎左衛門・弥三右衛門・市右衛門・権左衛門)、神戸村(名主 定三郎、組頭 何右衛門、百姓代 角之丞・十四郎)、神戸新田(名主 定之助、組頭 喜右衛門)、小俣村(名主 五助、組頭 忠五郎・次郎右衛門、百姓代 堅次・彦四郎)、
 
  (改頁)
 
今村(名主 五助、同代 与二郎、組頭 与左衛門、百姓代 甚兵衛・庄右衛門)、
右は出川組(いでがわぐみ)八か村、
松本御領の惣高は、当時五万四千五十九石四斗、
 
  (改頁)
 
天保十己亥(一八三九)暦、
この年は、雨順〓で、候而、六月十九日の雨まで続き、その後は照りがちで、七月十二日の番には、このあたりばかりよほど降り、その後ようやく七月二十四日の晩から朝まで降る、八、九月も雨が少なく、秋仕舞の時期の稲や粟たたき、、藁も濡れなかった、、冬には雪も少なく、雪の消えた道路もよい状態で、年取りの頃(十二月晦日)には草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)が、道を歩いていても濡れなかった、
 
  (改頁)
 
年徳何れの方、寅卯の間、
日記小夫の部、値段の見積もりを少し記す、
正月 油一本・四十文くらい、二月 よりこ壱把・一朱くらい、二月二十六日 よりこ壱「一把・一朱と五十文、三月二十一日 塩小俵二・一分一朱、豆腐一丁・三十二文くらい、
 
  (改頁)
 
三月 酒一升上もの・一朱、五月 刈敷(かりしき、山野の草や樹木の茎や葉を刈って、水田や畑に敷き込むこと)一駄・二百七十二文、八月 酒一升一合・二百文、八月二十六日 甲州上もの綿三把・二朱になる、十月 上酒一升一合・百四十文、十一月十六日頃 上酒一升一合・百十文になる、
 
  (改頁)
 
十二月十六日 よりこ上二把・一朱と二十四文、一分・よりこ八把、
同年(天保十年)の作物の実入り方、種八斗三升取り、大麦十四俵ほど、小麦一石九斗、
 
  (改頁)
 
籾〆めて四十五俵ほど、粟〆めて十三俵三斗、かけ五斗、大豆 八俵、蕎麦 六斗、ごま 三升、小豆 二斗八升、
 
  (改頁)
 
穀物の直段
二月二十六日 大豆 二俵八斗かえ 一両 八斗かえ、三月二十六日頃 大豆相場一両につき八斗六升かえ、四月五日頃 粟一両につき一壱石四升かえ、四月二十一日 粟一両につき一石四斗五升かえ、
 
  (改頁)
 
七月三十日 種一両につき四斗六升かえ、八月十一日 米一両につき八斗二升かえ、八月餅白米一両に六斗五升かえ、八月十四日 白米一両につき相場九斗かえ、八月二十五日白米一両に九斗八升かえ、
 
  (改頁)
 
穀類がだんだんと値が下がっていき、十二月極月
玄米一両に一石四斗かえ、一石五斗かえとも申す、酒も伊那の酒がこちらにはいってきて、一両につき九斗よから一石までに売る、村方の酒屋は十二月頃に極月頃、九斗くらいに売る、
 
  (改頁)
 
亥年(天保十年)御上納の部
三月十八日の納め、一分二朱六百二十六文、これは戌年(天保九年)の四納、七月十八日に一分五百六十九文、つごう五回納める 戌の歳の分は皆納める、ほかの村のなかには半分の上納のところもあったとのこと、
十月十二日
金一両一分 亥の初納、二両三分四十四文 初二納、三百五十一文  足役(あしやく、夫役の俗称)、〆めて二両三分三百九十五文、
 
  (改頁)
 
そのうち一両一分 初納引き、残って一両二分三百九十五文、四貫七百三十四文 皆納、三貫七百三十四文 夫銭、六貫四百六十一文 伝馬、百四十九文 宗門、丁五十文くわ掛り、〆めて十五貫百三十六文、
右へ、十貫七百六十六文 伝馬納、一貫百四十九文 戌年の上納の割り返し、八貫五百三十七文 取かえ 松本領用、小計二十貫四百五十六文、
 
  (改頁)
 
差し引き三分二百二十文が返る、右のほか伝馬下男勤め分 三朱二百六十二文が入る、
役元極納割り、
上納米一石につき一貫百九十三文懸り、夫銭高一石につき四百二十文懸り、伝馬草一石につき七百二十七文懸り、鍬壱丁につき三十四文懸り、宗門一人三十七文懸り、
 
  (改頁)
 
上今井村の上納 米一石につき一貫百四十文懸り、今井村の伝馬草高一石につきニ付九百八十六文懸り、神林村分の上納 米一石につき一貫三百三十八文懸り、神林村分の夫銭草高一石につき一貫二百十五文懸り、
 
  (改頁)
 
亥(天保十年)の日記の事
元日 雨降り 昼頃より、十一日頃に大雪が降る、
小又の掛物に、諏訪丸玉様の筆
火防
寄 語 守 無 忌 火 光 連 入 池 家 有 壬 癸 神 日 献 四 海 水
 
  (改頁)
 
和田町の九郎兵衛へ、神林の常左衛門へ、御巡見帳の写しを遣わす、
二月五日
長照寺門前に捨子があり、あちこち尋ねてみたがわからなかったので、小又の者にその捨て子を与えた、詳細は日記に記してある、
二月九日の夜 新田の定之助の土蔵の窓を切り破ってり盗賊が入ったという、何もとられなかったが、米を二斗ほど盗られたという、
 
  (改頁)
 
その日の夜 当村の京右衛門方の土蔵の窓の錣(しころ)にてこち放し、およそ五十品ほど盗み取り、だんだん調べているがみつかっていない、
二月二十三日 小又本宅の藤七殿の妻が倉科より来る、千弥・私・お類も行く、
三月七日 神林の元右衛門殿の婚礼、今井より娵を取る、私も謠に行く、
 
  (改頁)
 
三月十一日 御教諭御役人様、神戸の藤三郎方で御昼、
三月二十三日頃 藤三郎の表の川端の石垣を、栗の木の枠にかえる、
わくにかへる、この日、小又の娵の「との」が来る、
 
  (改頁)
 
四月十七日 江戸飛脚が帰る、この飛脚二人は、神林町の国之助と神戸村の又蔵、これは尾州様の御通行につき、木曽の役人が江戸に罷り在る所に書状を届けるために、今月八日の暮に出発し、筑地原で夕飯を食べ、それより夜通し行って、九日に松井田(まついだ、群馬県)まで行き、それから上尾(あげお、中山道の宿場、埼玉県)まで行き、十日に上尾宿で夕飯を食べ、夜通し行って十一日の朝八時に江戸へ着いた、たいへんな早足だ、丸三日で着いたことになる、
 
  (改頁)
 
跡より出た付人が参り、出情したが、加助郷(かすけごう、新たに追加された助郷)が」できずに大騒ぎになった、
四月二十四日 千弥と定三郎が、伝馬才料に行く、
四月二十六日 人足どもが帰る、
五月五日 田植え、
 
  (改頁)
 
この四月、村々の役人一人宛と小前惣代一組の両人が御召し出し、左のとおり仰せ聞かされた、
御領所の村々が凶年で、備蓄のために籾を差し出したいと願い出たので、このたび、水野越前守様に御伺のうえ、御賞美については、御勘定奉行の内藤隼人守様より御達があり、殿様にも御満足された、
 
  (改頁)
 
村々役人どもはじめ小前の皆々まで、長年の御厚恩を感謝し、御厄介筋を厭い、村々の永久を思っての御沙汰でもあるので、特段に寄特のことで、これにより少しばかりではあるが、殿様から御酒肴を下された、なおこのうえは何事にもよらず、村のことを心掛けていくようにと御沙汰が御白洲にて仰せ聞かされた、
出川組八か村へ、戸やな三本、
 
  (改頁)
 
するめ三把、これを村方へ持ち返ったところ、少ないので、一軒一合と決めて組合へ遣わした、たしまい(足し米?)一升余りかかる、
五月二十二日の夜 藤三郎と角之丞が小又へ参り、
「殊のふあつさにて 御家内の送りいで 給ひしを ことのふ星宵に 君のやかたにて御もてなしの折から、さやけき月に送り給ひしを 涼しさに送らるゝ 身のうれしさや 月に残る花の数/\」
 
  (改頁)
 
同夜に帰る、」門辺に蝶々のたわむれたるを 月代(ママ)に蝶々の舞ふ 庵の門辺 かつらの花のちるかとぞ見し 一笑庵」、
五月二十五日 小又の市正方で蟇目祈祷があるといい、当村も穀類で加入、
(改頁)
五月十一日頃のこと、中波田(なかはた、松本市波田)に出火があり、女子が人の牛を借りて荷に麦をつけ、近隣の人が「いやし火」をしていたところを通ったところが、その「いやし火」から牛の荷の麦へ火がつき、うちの毛小屋(けごや、物置小屋)に牛が駆け込み、そのうちに毛小屋に火がつき、それからうちの馬屋(まや)へ駆け込み、そこもともに火がつき、亭主は野良に出ていて、母と娘ばかりで、ようやく荷を切りとり、牛も焼き焦げさらにされから大火になり、本家六軒、棟は数
 
  (改頁)
 
多く焼けたとのこと、いやし火をしていた人、牛の持ち主、牛を借りた人、三人の災であり、おそろしいことだ、
五月二十二日 安志家中将監公より藤三郎へ書状が来る、
七月八日 新宅の娘「とね」申す女子が、「はり」で亡くなる、菊香孫素女 六歳、なむあみだぶ、なむあみだぶ、
七月十二日 このあたりばかり雨が降る、大照り、ほかはどこも大焼け、
 
  (改頁)
 
この時期、米の値段が下がり、金一両につき一石一斗という、
七月二十三日、雨乞い祭り、諸国のうち関東はなお大焼けという、二十四日の晩よりようやく雨が降る、
二十五日 二百十日。穏やかだ、私が思うに、この春の穀高直の節、大小拵え置いたところよりもなお安く、奇妙だ、
 
  (改頁)
 
いつになく、上下ともに賑わって、米穀を見よ、八斗六升、右上の句のうちに大あり、下の句のうちに小あり、
小の沢でも、先日四歳の小児が亡くなったという、
八月一日 日蝕、山より欠けながら出る、九分七厘ほど欠ける、
二日 長照寺後住の取り決めとして、惣代が集まる、
 
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八月五日 千弥と十四郎ともに覚雄和尚を連れて松代に行く、
八月五日 出穂御見分、御出張、御昼、
八月八日 松代に行き帰る、
八月十四日 彼岸になる、
八月十六日 先日、徹宗和尚が松代へ行って帰る、とかく松代は難しい、
 
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八月十八日 苗間(なえま、苗代)に浮塵子(うんか、イネの大害虫)がついて、稲が枯れてしまい、刈り取ってハゼに架ける、途中でも浮塵子がたかった所があり、日陰にもなってけしからん、かまがたち、たかり枯れる、籾取方のふろくあり、
八月二十三日 安志へ書状、藤三郎方で認める、
九月一日 長照寺で寄合があり、松代で書付を当住より受け取らなかったということで差し支える、
 
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九月三日 山へ大雪が降る、九月四日 大霜が降る、
九月五日 御出役、西村喜太郎様、柿沢(かきざわ、塩尻市)より当村へ御移る、
九月十一日 小又の本宅と新宅金段入組、済口(すみくち、落着)となる、
九月二十三日 朝霧、この間は暖かで、日陰でも袷(あわせ、裏地つきの着物)で暮らす、痢病が今流行る、出目浅吉が煩って困るこ、
 
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十月三日 菜と大根をつむ、
十月五日 新田にてまた男子が出生、
十月十三日 村役人と立入人の九郎兵衛・太次右衛門が相手の訴状ともに地改めに出る、
十月十七日 天気〓、秋よりあと雨が降らず、これが夏なら大騒ぎになったところだ、
十月十九日 大雨、湿り、
 
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十月二十一日 郷申状、白川より参った仁左衛門方より鶴弥兄が亡くなったと、八月十一日の八時のこと、戒名は善浄信士、
十月二十九日 藤三郎後妻が池田より来る、私は相伴に行く、お類、大庭の七夜祝儀に行く、おいち婆を連れて、
 
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十一月一日 大池(おおいけ、東筑摩郡山形村))の小兵衛の祖母より銀杏の実をもらい、礼に申し遣わす、「志ろかねの からもゝ多く下さるゝ 大こくてんと 君を思ふて」、この人は八十四才歳になる、先日も恵比寿様の見かえし(布)を切ってくれた、
 
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十一月六日 先年、石川玄蕃頭様(石川康長、いしかわやすなが、数正の子、松本藩主)より拝領の小脇差を、松本の中町(なかまち)の「ちきりや」丸山源内方でつくり、正広・白鞘にし、ほかに身調帯のようにつくった、この源内と申す者は、石川様が松本に御在城の頃から松本に住み、御城へ泊り番などに罷り出たといい、何か書付けもあるとのこと、
 
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十一月十五日 松本御役所より御差紙があり、罷り出たところ、今村一件の取り扱いの様子をよく解決したということで、殿様より御褒美として、金二朱を下さる、新田の定之助と神林の治左衛門も、同じようにいただく、
十一月三十日 村方一件、新開願い一件、済む、
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十二月十一日の夜、定之助と、二子の九郎右衛門方へ、小又の新宅の借用金済に方につい談判に行く、十二月十三日に済む、
十二月十五日 平田(ひらた、松本市の芳川地区)の左門太殿が御入来、娘お類の仲人野溝(のみぞ、松本市の芳川地区)の市郎次弟娵に貰いたいと、同十八日に藤三郎殿が野溝
へ、掛け合いに行く、
十二月二十一日 晩に出入初め、野溝へ仕合、詳細は別の帳面に書いてある、
 
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十二月二十二日 午後八時に御触れ
覚 大殿様が御病気あそばされていたが、御養生叶わず、、今月十七日にご逝去あs0ばされたと、江戸表より申し来られた、このことをよく知り、諸事にわたって慎み、火の用心はとくに念入りにするように、この書付を早々に順達し、留り村より返すこと、十二月廿一日 松本御預役所八か村名主・組頭、
 
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十二月二十七日 小又へ行く、立花拵え遺わす、先日藤七郎殿が高遠(たかとお、伊那市)へ参り、殿様より梅を貰って、白梅の見事なことを祝寿、「照星の梢にやどる白梅や 天下りしと 人の問ふまで」、また、寿喜屋で御などをいただいたことを承り、御上にも嘸御慕いあそばされたいと、小又の両親へ遣わす、
 
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「人相は 香又木の梅の花 和泉式部も まゆをひそめん」、
十二月二十八日 野溝へ歳暮を遣わす、平田(ひらた、松本市の芳川地区)へも遣わす、この日の晩方に、野溝から久内蔵殿が来る、土産は、米・柿・足袋二つ・酒肴、あちこちから歳暮をもらい、
 
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めでたい年取りだ、
明ければ、天保十一庚子(かのえね、一八四〇)年の元旦に試筆、
「ゆたかさや 大こく天の保川土 かのへ子寿美の年を迎へ亭 一笑庵画讃」、
 
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「元日の夜茄子のさかんなる苗を夢に見亭 元日の夜にはやな寿の夢見たり ふじの麓に心うつし亭 又大小小ノ月○いつとなく ゆたかの御代と成にけりといふを小月 五十七九豊の三四と成にけり、
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家睦
大 正しさや六まし八而二十霜暮
小 七五三うつく四九 福の来る門 惜寸陰
矢の如し六正八たら二十霜暮 七五三を寄のも 四九早く来ル
〇松だけの大小 鶴/\と お亀松竹がりに出て 千秋万つ 歳の玉もの
 
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天保四癸己年より、同五甲午年、同六乙未年、同七丙申年、同八丁酉年、同九戊戌年、同 十己亥年、同庚子年正月日、書畢、
 
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さて、飢饉ほど辛いことはない、潰(ママ)事書にも、「金は山ほど積み置いてあっても、飢えた時は食べることができない、寒い時に着ることもできない、米穀と衣服は国の宝である、一粒を食べるときも、一縷を着るときにも、天の恵みを思うことだ、ふだんの病気のときにはさまざまな医療をうけ、薬を用いても、その甲斐
 
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なくも命を終える若死にもある、つらいことではあるが、それはそれだけの寿命しかなかったということだ、飢饉という大きな災難での餓死するときは、親と離れ。子に別れる、子どもほど可愛い者はないけれど、子どもをもらっても、とりくいなどする輩も、ついには餓死する者の数えきれないほどだ、松府(松本の城下?)でも年内に千人も亡くなったという、毒にあたらなくても病んだまま亡くなる者も数多く、そのほか乞食も、
 
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東町(ひがしまち、松本城下)大橋(おおはし、善光寺道の女鳥羽川に架かる橋)のほとりに倒れていて、腹がへった腹がへったと泣き悲しみながら亡くなる者も数えきれないほどだ、お城の大手通りは、人払いをして寄せ付けないので、多くは東町の橋より縄手(なわて、女鳥羽川沿い)通りに死に倒れ、札の数が多く建ち、めざましいことだ、五穀にかぎらず、火も水も大切に心掛けて使うべきだ、申もおろかなれど、日月はとぎれることなく御照し、御恵みになるのに、昼夜とも油断して大酒にたわむれ、
 
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遊びに興じてその身を痛めたりするのは、もったいないことだ、食事や水や火に至るまで大切に心掛け、日月の御恵みが大きな恩であることを畏れ慎み、精を出してはげむべきだ、こうしたことが、今日であり今のことだ、丸山角之丞 暉始
 
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天保四癸巳(みずのとみ)年(一八三三)より天保十一庚子(かのえね、一八四〇)の春まで八か年となる、このうち元のようにならずに、なおまたこの春に承ったが、和田組などでは、人がまばらになったところが数多くでき、御上納なども滞り、夫銭の出入りなども差しさわり、元の姿になるまでは容易ではないことを
 
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考え知るべきだ、
 
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ここに少し甲州紙があるで書き置く、
一休和尚のうたに、世の中は、貧しい、徳がある、苦しい、楽しいと、なんだかんだといっていつもむかついてはいても、灸も七苦もすえれば、苦しみが治るというのはこくだ、この七苦を、丹田(たんでん、下腹部の臍の下にあたるところ、ここに力を入れると健康と勇気を得るといわれる)へ動かないように決め込んでみよ、
世は、安心に暮らしたいものだ、好き勝手にたいものじや、好きにハ薬灌(やかん、薬を煎じるのにもちいる)を焼いてかぶるというが、さぞ熱いことだろうと思う、普通にもいいているものでも、私は、金の貸し借りがいやだ、借りて使うと太っ腹になって、身の上よりも暮らしかたが、
 
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奢るようになり、穀商いなども苦労し、穀を買い調べ、違作(いさく、凶作)に備えるような心得があっては恐るべきことだ、百姓の身分は、天が相手だ、天道さま(てんとうさま、太陽)が、とぎれることなく、あのようにお照らしなさる、どうか、ありのままにして、人に苦労をかけないように、「尽が蟹の穴」という本に書かれているとおり、裸では物を落とさないという道理のように、私ごときは、百あれば五十くらいの身上に見せかけ、借用しないようにし、安楽に暮らしたいものだ、人を相手にする仕事は、人を恨み、御上へも御苦労をかけ、借りたものは返さねばならず、貸した物は
 
 
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ちょうどには取ることができず、それを取ろうとすれば苦労になる、欲には〓が立たないから、天道(てんどう、宇宙の道理)を畏れ、おそれ地道(ちどう、大地にそなわる道理)にそって暮らし、今日亡くなっても、息子や孫に厄介をかけないようにしたいものだ、ありのままに奢らないようにして、家内睦まじく暮して下され、この蝶は、他人に見せるものではない、世の中の息子が親にはやなれば、人も仏になることぞ詮なし、
天たもつ(保)十一年かのへ子(庚子、一八四〇)の孟春に記しおわる、
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丸山角之丞暉始画(花押) 五十六歳
まる山 子々孫々へ
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慎 其 独 一笑庵書