松尾千振 1
小里頼永
森本省一郎
分県之建白 2
長野県管下信濃国東筑摩郡外六
郡百四拾ケ村有志人民総代松尾千振・
小里頼永・森本省一郎、謹ンテ書ヲ元老
院議長大木伯ノ閣下ニ上ツル、我信濃ノ
地タルヤ中山道ノ東北ニ位セル大国ニシテ、東
西直経四拾三里、南北直経五拾四里、郡数
十六、人口百〇六万ニ達シ、面積ノ広キ戸ロノ
稠キ皇国中又殆ント其比ヲ見ス、明治元
年伊那県・名古屋藩取締所及ヒ十四
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藩・一預所・五支配所ノ統治スル所タリ、同二
年伊那県及十三藩トナリ、同三年伊那県
ノ外更ニ中野県ヲ置カル、他ノ十三藩庁
前年ノ如シ、同四年六月中野県ヲ廃シテ
長野県ヲ置カル、殊ニ十三藩ノ中竜岡
藩ヲ併合ス、同年七月先キノ十二番ヲ廃
シテ十二県トシ、十一月更ニ十二県及ヒ伊那
県ヲ廃シテ長野県ノ管地ヲ拡メ、且新
ニ筑摩県ヲ置ク、当時管治スル所ノ者
長野県ニ在テハ今日ノ南北佐久・小県・更
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級・埴科・上下高井・上下水内ノ九郡ニシテ、筑
摩県ニ在テハ今日ノ東西筑摩・南北安曇・
上下伊那・諏訪ノ七郡及ヒ飛弾(ママ)国一円タ
リ、然ルニ明治九年八月筑摩県ハ廃セラレ
テ飛弾(ママ)国ハ分離シ東筑摩郡以下六郡
此時ヲ以テ長野県ノ管轄ニ属シ、千振等
ノ嘆息実ニ名状スヘカラサル者アリ、然レトモ法令
ノ厳粛ナル之ヲ分疏スルニ途ナク唯命維服ス
ルニ至ル、爾来歳月荏苒数裘葛ヲ閲スルモ廃
庁ノ感夢寐ノ間ニ往来シ痛慨ノ情禁スル能
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ハス、去ル明治十五年七月七郡ノ人民一和昂
起シテ分県置庁ノ説ヲ唱ヘ、総代者丸山
英一郎・村上伝五郎ノ両人ヲシテ出京セシメ、
請願建白ノ二書ヲ呈シテ哀訴泣願シ恩
命ノ下ルヲ待ツ、一日千秋ノ思ヒアリシニ建白功ナク
請願終ニ拒絶セラレ、七郡人民ノ宿願モ茲ニ
至テ全ク水泡トナリ痛嘆措ク所ヲ知ラス、蓋
シ大政府ノ意タル国庫ノ支出ヲ節シ府県
ノ区域ヲ拡ムルカ故ニ事ノ茲ニ至レル者カ、抑モ亦
事情ノ已ムヲ得サル者アルニ依ルカ、当時七
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郡人民等ハ既ニ依ルヘキノ門鎖シ訴フヘキノ路絶
ヘ快欝ノ間空シク時日ヲ経過シ、唯大政府ノ
方針ヲ窺ヒ万一ヲ僥倖スルノ外又策ノ出ツ
ヘキ者ナシ、爾来政令ノ県治ニ於ケル其一斑ヲ
想像スルニ、間々県域ノ狭少トナリ国庫経費
ノ増加ヲ来ス事アルモ、民情ノ背戻シ地勢ノ懸
隔シ経済ノ絶違セルモノアレハ、断然之ヲ分割セ
ラレテ殊ニ一県ヲ設ケラルヽ者ノ如シ、今其二、三ヲ
挙ケンニ、遠クハ島根ノ鳥取ニ於ケル、高知ノ徳
島ニ於ケル、石川ノ富山・福井ニ於ケルノ証アリ、近
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クハ愛媛ノ香川ニ於ケル、大阪ノ奈良ニ於ケルカ
如キノ例アリ、凡ソ是等ノ者各県各異ノ事
情アルヘシト雖モ、帰スル所前陳ノ理由ニ基カサ
ル者ナカルヘシ、千振等ノ想像ニシテ果シテ大過
ナキ者卜為セハ、再ヒ茲ニ分県ヲ請ヒ恩命ヲ
仰カントスルモ敢テ又故ナキニ非ルヘシ、今ヤ大政
府ハ力ヲ地方自治ノ事ニ尽シ、市町村制ハ
既ニ実施ノ緒ヲ開キ、府県郡制将ニ発布セ
ラレントス、千振等此機ニ際シ請願ヲ為ス所以
ノ者誠ニ其情ノ黙シテ已ム能ハサルニ依ル、乞フ
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茲ニ其理由ヲ陳ヘン、
夫レ信濃ハ皇国ノ梁脊ニシテ峰巒重畳四
境ヲ囲繞シ、其脈分レテ域内ニ入リ綿亙スル者
アリ峙立スル者アリ、或ハ数郡ニ跨リ或ハ一郡ヲ
劃断シ山状限リナシト雖モ、其尤モ大ナル者ハ
東南ヨリ西北ニ延ヒタル一山脈ニシテ、甲斐ノ境ナル
八ケ岳ヨリ起リ蜿蜒斜メニ延テ国ノ中央ヲ貫
キ越後ノ境ナル小網嶺ノ山脈ニ合ス、故ニ本国
ノ地ヤ外面ヨリ之ヲ評セハ、壺中ノ一夭地ナリト雖
モ、内部ニ就テ之ヲ観察セハ此一帯ノ大山脈ハ
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自カラ二個殊別ノ国土ヲ形画スル者ニシテ、之レヲ
分テ南部北部トナス、北部ハ北ヨリ東ニ延ヒテ上
水内郡以下八郡ヲ包含シ、南部ハ西ヨリ南ニ開
テ東筑摩郡以下六郡ヲ含有ス、蓋シ南北両
部ノ相分ルヽヤ天然ノ形勢ニ依テ然ルモノニシテ、
其間隔絶乖離ノ状態ヲ呈スルモ亦深
ク怪ムニ足ラス、是レ分県ヲ請フノ理由第一也、
地形異ナルノ地ハ人情ノ相背戻違離スル事固
ヨリ論ヲ待タス、往古ノ事ハ措テ問ハス今目前ニ
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就テ之ヲ例セン、夫レ県会ハ県民思想ノ代表
場ナレハ、其言論ノ模様ニ徴シ以テ一般人民
ノ気質ヲトシ人情ノ傾向如何ヲ察スルニ足ル
可シ、我長野県会ヲ見ルニ其創始以来南
北両部議員ノ間思想常ニ一致セス、決議
往々公平ヲ失ヒ、南部ノ利セントスル者ハ北部間
々之ニ背キ、北部ノ益セントスル者ハ南部往々
之ニ違ヒ、暗々ノ裡相睥睨シテ已マサル者アリ、
是ヲ以テ南北附帯ノ事件ヲ除クノ外其決
議ノ好結果ヲ奏スル事尤モ少ク、動モスレハ必要
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急務ノ議按ニシテ支離滅裂、理事者ヲシテ意
外ノ吃驚ヲ為サシムル者アルニ至ル、局外ヨリ之ヲ
見レハ大ニ笑フヘキカ如シト雖モ、其実状勢ノ已
ム可カラサル者アリ、議員等敢テ公平ノ意ナキ
ニ非ス、意アツテ施ス能ハサル者ハ思想ノ一致セサ
ルニ依ル、議員等敢テ思想ノ一致セサルニアラス、
期シテ行ハレサル者ハ人情ノ相背戻スルニ依ル、
是ヲ以テ今南北両部ヲシテ同一県治ノ下ニ
置カシメンカ、凌轢日ヲ逐テ重ナリ決議紛レ、
事業破レ其極県民ノ不幸ヲ来スニ至
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ラン、嗚呼県会ニ於テスラ猶斯ノ如キノ傾キ
アリ、一般人民ノ趨勢推シテ知ルヘシ、是レ分県
ヲ請フノ理由第二也、
且夫レ長野県庁ノ位置ハ北部上水内郡ノ
長野町ニアリ、抑モ長野ノ地タルヤ国中辺陬ノ
一仏地ニシテ、北越後ノ国境ヲ離ルヽ僅カニ七里
余、南三河ノ国境ヲ隔ツル殆ント五十里余ニ及
フ、蓋シ斯ノ如キノ差アルモノ各県未タ其例ヲ見
ス、故ニ南部人民ヲシテ県庁ニ至ルヤ近キ者モ一
日程ヲ費シ、其最モ遠キ者ハ五日程ヲ要
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シ、加フルニ道路嶮悪ニシテ行歩極メテ艱難ナル
者アリ、縦令南北ノ間早晩明通越ノ嶮洞通
シ[南部東筑摩郡ヨリ北部小県郡ニ達スル路
ニシテ既ニ其工事ニ着手ス]高府通ノ路改修セ
ラルヽモ[南部北安曇郡ヨリ北部上水内郡ニ達ス
ルノ路ニシテ将ニ其工事ニ着手セントス〕、深山大
沢ノ裡豈積雪ノ路ヲ埋メ行ヲ塞ク者ナカラン
ヤ、然ルニ翻テ北部ノ道路ヲ見ルニ路線多クハ
一貫シ、啻ニ平坦ナルノミナラス鉄道既ニ東ヨリ
北ニ通スルヲ以テ汽笛一声転瞬ノ間京ニ上
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ルヘク越ニ入ルヘク、行通尤モ自在ニシテ各郡ノ県
庁ニ於ケル尚ホ睫前ニ在ルカ如シ、是ヲ南部
ニ比スルニ其差霄壤モ亦啻ナラス、然テハ則チ
之ヲシテ中央ノ地ニ引カシメンカ、是云フヘクシテ
行フヘカラス、七郡人民等ハ涙ヲ呑ンテ辺陬
ニ往来ス、其不便果シテ如何ンヤ、是レ分
県ヲ請フノ理由第三也、
凡ソ事遠キニ疎ク近キニ精シキハ自然ノ理
ニシテ、遠近其平衡ヲ得ルハ到底為シ得
ヘカラサル者ナリ、今夫レ一方僻遠ノ地ニ居リ
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他方遠隔ノ地ヲ御セントスル、縦令ヒ公明ノ理事
者アリテ完美ノ法律ヲ施スト雖モ、其治蹟ニ
多少ノ精粗ヲ来スハ免ル可カラサルノ数也、夫
レ斯ノ如クナルヲ以テ、県庁ニ近キモノハ其誘掖
勧諭ヲ受ケ易ク、其遠キ者ハ薫陶監護
ニ遇ヒ難ク、南北ノ間不知不識事業ノ懸
隔ヲナス者アリ、是レ有形ノ事業ニ於テ見ル
所ニシテ真ニ慨嘆ニ堪ヘサル者アリ、是レ分
県ヲ請フノ理由第四也、
地価一定セサレハ税額ノ不平均ヲ生スルハ固ヨ
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リ見易キノ道理ニシテ、今其南北両部ノ地価
ヲ対照スルニ、北部ハ収獲ノ高ニ比シテ地価廉
ニ、南部ハ概シテ之ニ反対セル者ノ如シ、故ニ単ニ
地価ノ一点ニ基キ之カ平均ヲ為セハ南北隔絶
ノ差少シト雖モ、其収獲ニ憑テ之ヲ推セハ甚タ
平均ヲ得サル者アリ、故ニ課税ノ際地価ニ於
テ南北権衡ヲ失シ畢竟彼ニ益シテ我ニ
損スルニ至ル、之ヲシテ平均ナラシムルハ容易ニ為
シ得ヘキノ事ニ非ス、果シテ為シ得ヘカラサル者
ト為ンカ、課税上隔遠ノ差ヲ為ス者ニシテ到
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底同一治下ニ立テ其負担ヲ受ルニ忍ヒス、是レ
分県ヲ請フ理由第五也、
以上陳フルカ如クナルヲ以テ、千振等カ殊ニ茲ニ請
願スル者真ニ已ムヲ得サルノ情勢アルニ依ル、今
信濃ノ中之ヲ分割シテ二県ヲ置カンカ我南
部七郡ハ其県域狭少ナルカ如シト雖モ、人口面
積反別等ハ、之ヲ山梨・鳥取・宮崎・青森等
ノ諸県ニ比スルニ敢テ劣レルニ非ス、果シテ然
ラハ一県ヲ組成スルニ於テ又何ノ難キ事カア
ラン、伏シテ願クハ閣下南部七郡ノ情勢ヲ
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察シ、千振等人民ノ微衷ヲ憐ミ長野県ヲ
割テ特ニ松本ニ一県ヲ置カレン事ヲ、幸ニ分
県ノ恩命ヲ得ハ民ニ凌轢ノ恐レナク事ニ
牴牾ノ跡ヲ見ス、理事ノ法依テ以テ滑カニ自
治ノ精神依テ以テ起リ、独リ我南部七郡人
民ノ栄ノミナラス又信濃ノ幸卜云フヘシ、則ハチ
信濃南北両部一覧表及ヒ地図卜委任
状ノ写本ヲ副へ謹テ具状ス、閣下幸ニ採納
ヲ賜へ、書言ヲ尽サス言意ヲ尽サス、千振
等恐惶頓首
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明治二十二年九月廿六日
長野県東筑摩郡外六郡百四拾ケ村壱万
弐千〇一人総代
東筑摩郡松本町三百七拾二番地 士族
小里頼永(印)
三十四年五ケ月
下伊那郡神稲村三百九拾七番地 平民
松尾千振(印)
三十五年七ケ月
南安曇郡梓村二百二番地 平民
森本省一郎
三十八年一ケ月
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元老院議長伯爵 大木喬任殿