[解説]

『小諸義塾と木村熊二先生』
小諸市古文書調査室 斎藤洋一

 本書は、昭和2(1927)年に82歳で死去した木村熊二の小諸義塾時代の教え子たちが中心となり、木村の記念碑を建設した際に、小諸義塾と木村の記念に発行したものである。本書の発行所が「木村先生記念碑事務所」になっているのは、そのことを示している。ちなみに木村の記念碑は、小諸市懐古園の三の門を入った少し先、真正面の石垣に設置された。木村の肖像のレリーフ(その下には、島崎藤村が揮毫した「われらの父木村熊二先生と旧小諸義塾の記念に」と刻まれている)が埋めこまれている。
 小諸義塾は、小諸町(現小諸市)の青年たちの要請を受け、木村熊二が中心となって明治26(1893)年に設立した私塾で、明治32年には長野県から中学教育を行うことが認可され、この年4月には木村の招きで島崎藤村が英語・国語の教師として赴任している。義塾の教師にはこのほか、図画の三宅克己丸山晩霞、数学・物理化学鮫島晋など、そうそうたる人物がいた。こうしたことから小諸町をはじめ周辺町村から学習意欲にあふれた青年たちが多数入塾して活況を呈したが、財政難その他の事情から、藤村が辞職して東京へ去った明治38年の翌年、13年にわたる義塾の歴史の幕を閉じ、木村も小諸を去った。
 義塾の中心となった木村は、幕末弘化2(1845)年、出石藩の儒学者の子として生まれ、10歳の時に木村家の養子となり、徳川幕府の役人となったことから、戊辰戦争の際には幕府側に属して戦った。このことが関係していると思われるが、明治3(1870)年に渡米し、ミシガン州のホープカレッジなどで勉学に励んだ。その後キリスト教信者となり、牧師試験に合格して、明治15(1882)年に帰国した。
 帰国後は、妻鐙子とともに明治18年明治女学校を創立したり、『女学雑誌』を創刊したりと、女子教育にを注いだが、妻鐙子は翌明治19年にコレラで急死する。その後、伊東華子と再婚するが、華子が起こした問題に巻き込まれ、木村は女学校の校長を退かざるをえなくなる(その後華子とは離婚)。そのようなことがあったからであろうが木村は、明治25年長野県佐久地方へ伝道のため移住し、そこで小諸の青年から要請され、翌年に小諸義塾を開塾する。義塾では修身を受け持ち、熱心に教育に当たるかたわら、桃やイチゴの栽培を勧めたり、中棚鉱泉の開設に当たったりと、地域振興にも寄与した。
 こうしたことから、木村が小諸を去った後も、木村を師と慕う人々は多く、木村存命中に記念碑建設計画がもちあがったが実現にいたらず、没後の記念碑建設、記念誌発行となった。
 本書には、巻頭に木村のレリーフの写真や卒業記念写真などが掲げられ、ついで木村の「伝記」、木村の「遺稿」が掲げられている。その次に島崎藤村、沖野岩三郎、木村毅らによる木村に関する「寄稿」、義塾の歴史や規則・考課簿・職員名簿・門弟名簿などの「塾誌」、元教師や卒業生などの「回想」、最後に記念碑建設などの経過報告、記念誌の編集についての説明などの「記録」が掲げられている。A5版全144頁である。
 本書は、明治中期に地方の青年たちが学校設立を希望し、それに答えて木村らが設立した小諸義塾の歴史を伝える貴重な記録といえる。なお、本書の復刻版が1996年に大空社より発行されている。また関連書籍に、東京女子大学比較文化研究所編・刊『校訂増補 木村熊二日記』(2008年)、高塚暁著『小諸義塾の研究』(1989年、三一書房)などがある。小諸市には、小諸義塾記念館・藤村記念館・明楼(木村旧宅)などあり、往時をしのぶことができる。