2.木曽の歴史

            5
木曽は古書、吉蘇・岐蘇又は吉祖に作り、近世の詞人或は岐岨に作るものあり。東山道の険要に当り北陸より東海に赴く者又之に会したるを以て、古(いにしえ)より駅路を開き木曽路の称あり。続日本紀に曰(いわ)く大宝2年始めて美濃国岐蘇の山道を開くと。是れ木曽の名目が文献に現はれたる嚆矢(こうし:事のはじまり)にして、当時美濃国に属せしことを知るべし。同書に又曰く和銅6年(注2-1)美濃・信濃2国の堺は径道(けいどう:こみち)険阻にして往還艱難なり。仍(よっ)て吉蘇路を通ずと、蓋(けだし)大宝2年(注2-2)に開鑿(かいさく)せし所を更に修理せしものか。貞観(じょうがん)(注2-3)中木曽の山谷は信濃・美濃両地を争ふ所となりしが、元慶(がんぎょう)3年(注2-4)旧記に拠り判定して今の鳥居峠を以て国界とせり。然れども此山谷は信濃に接近するを以て世人尚信濃の城内となし、爾後(じご:そのあと)其所属分明(ぶんめい:あきらか)ならず。明治元年名古屋藩の管轄に属し、3年名古屋県に、4年筑摩県に、9年遂に長野県の管内に入れり。今少しく此山谷の歴史を語らしめよ。
源平の世、中原某此に居り木曽中太と称す。其一族に中三権守兼遠なるものあり、之れ義仲の乳母夫
 
  (改頁)
 
なり。義仲の父義賢、悪源太の為に殺さる時に、義仲尚幼孩(ようがい:おさなご)なり。其母抱き来て兼遠に托す。義仲宮越(みやのこし:地名)の館に居り、治承(じしょう)4年(注2-5)以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて兵を起し頻りに平軍を撃破し、先づ白旗を東師に建てしは皆人の知る所なり。義仲の長子隆質となりて鎌倉にあり、頼朝に害せらる。弟二子基家、其外祖沼田氏に匿(かくれ)る。基家五世の孫家村、足利氏の始に当りて功あり木曽に封ぜられ須原に館す。是より世々相伝へて義康に至る時に、甲州の武田信玄数々(しばしば)辺境を侵し相拒(ふせ)ぐこと数歳なり。後和を講じ互に女を以て質となす。義康の子を義昌とす。勝頼の屡々(しばしば)役を興し誅求(ちゅうきゅう:税などをきびしくとりたてること)飽くなきにより、天正10年(注2-6)義昌遂に意を決して織田氏に通じ砦を鳥居峠に造り、織田氏の軍を迎ふ功を以て安筑2郡を増封せらる。其後信長の弑(しい:目上のものを殺す)に会ふに及びて豊臣氏に属し尋(つい:ほどなく)で封を下総に移さる。義昌の子義利、罪に坐して国除かる。此間木曽谷は一時公領となり尾張犬山城主之を管治す。慶長5年(注2-7)関ヶ原の事起るや徳川秀忠軍を率ゐて木曽路を過ぐ時に、木曽氏の遺臣山村良勝、千村良重召(まねき)に応じ、徳川氏の軍を導き木曽谷を徇(したが)ふ。是に於て山村氏は美濃の食邑(しょくゆう:領地)一万石を賜り、木曽の代官を命ぜられ福島の関を守る。元和元年(注2-8)徳川氏木曽を挙げて義直に与ふ。而して山村氏は尾藩の附庸(ふよう:大国の支配下にある小国)となり、福島の関を守ること旧の如し。明治維新に至り額土の奉還と共に福島の関を撤去し、明治13年西筑摩に編入せられ、長野県の治下に属するに至れり。此に木曽谷政次権革の大要なり。
 
  (改頁)      6
 
抑々(そもそも)木曽が東山道の重険として緊要の地なるは更にも云はず。古来其名の喧伝(けんでん:世間に言いはやし伝える)せらるゝ所以(ゆえん:わけ、理由)は、又実に其山林の無尽蔵の宝庫に帰せずんばあらず。然らば木曽谷は何れの時代より、此の如き翆嶂(すいしょう:青々とした連山)美林を形成せしか。思ふに木曽谷は天与の森林地帯にして国初以来已(すで)に既に其特長を発揮したるや、蓋(けだし)疑なし。其地名のキソと称するが如きも亦樹木に何等かの因縁を有する語にあらざるなきか。然りと雖も如何なる天然の美林も全く之を自然に放任し人民の濫伐に委(まか)し毫(ごう:ごくわずか)も保護の道を講ぜざらんには遂に其粋美(すいび:まじりけのない美しさ)を保つに由(よし)なかるべし。蓋木曽山林は古来領主の外、之を所有せるものなく、代々の領主は山林を愛護し又巧に之が利用を企図せしに由(よ)れり。以下少しく其沿革を述べん。
木曽森林の沿革は之を古記に徴し口稗に考ふるも上古の事は漠として識るべからず。但一般国中に政令を発せられたる文武天皇の御宇(ぎょう:天子の治める世、御代)慶雲3年(注2-9)3月の詔勅によりて山林の制度を創定せられたるより以降、国情の変遷に伴ひ屡々(しばしば)歴朝の詔勅又は太政官符を以て林政の布かれたることを認むれども、木曽地方に限りたる森林沿革は未だ之を詳(つまびらか)にせず。口碑の伝ふる所によれば正平年間(注2-10)伐木出材の事ありと云ひ、太平記亦(また)信濃より皮むきを輸出せしことを記すれども的確の証左を認めず。其明かに史乗(しじょう:歴史の書物)に現はれ良材の名を揚げたるは、惟(おも)ふに天正10年神官(注2-11)造営の御用材を以て嚆矢(こうし)とすべし。爾来(じらい:それ以来)次で建築造営材として輸出せしこと少からず。而して林制及林業の興りしは実に徳川時
 
  (改頁)
 
代にあり。慶長年中、山村氏木曽の代官となり元和中尾張藩に属せしは前述の如し。而して森林監守は寛文年中、上奉行を置き之を司(つかさど)らしむ。山林は古来禁あり。檜、椹、〓《ネズコ》、槇、明檜、之を五木(注2-12)と称し厳に伐採を禁ず。而(しかれど)も人民法を犯すもの多し。宝永年中(注2-13)市川甚左衛門正好山林監守となるに及び、木曽を留山、巣山、明山の三種に区別し、留山・巣山は一切伐木を禁じ、明山は五木の外伐採を許せり。
爾来樹木の生育に尽瘁(じんすい:をつくして苦労をすること)し、輪伐の業を興し、田土の石高を検し、墾荒の度を定め、森林を区画して民用を弁ぜしむ(弁ずる:分ける)。此特制度一変民情に違ふ。正好省みず断じて之を行ふ。藩も亦令に背く者は処するに刑典を以てす。木曽の山是より益々美なり。維新以来官林となり明治22年御料地に確定せられ御料局の管理に属せり。方今(ほうこん:現在、いま)面積10万5千余町歩(注2-14)、林制と林業とは年を追うて完美し、千年の古杉百年の老檜鬱々(うつうつ:うっそう)葱々(そうそう:さわがしいさま)天に連り、人をして其無辺際(むへんさい:はてしなく広いこと)なるに驚倒せしむ。実に一大奇観と云ふべし。
今や鉄路は木曽路を貫通すると共に、木曽谷は東山道の枢機(すうき:かなめ)たるに於て、又其林業地たるに於て、層一層緊要の度を増大し来れり。吾人は此輝ある歴史を有する木曽谷に於て国家百年の長計たる林学を修むるを多とす。吾人は徒(いたず)らに義仲を学び兼平を慕ふものにあらずと雖(いえど)も、而も是等古英雄の精神を精神とし、気魂(きこん)を気魄(きはく)とし、心駒に鞭(むちう)ち林業界の勇士となりて、聊(いささ)か社会国家のために貢献せんと欲するものなり。木曽歴史を述ぶるに際し聊(いささ)か吾人の覚悟を付記す。