[日吉町段丘について]

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 中野町面の下部に日吉町・花園町・高丘町・高松町・瀬戸川町・函館空港等の乗る日吉町段丘がある。この段丘の旧汀(てい)線高度は普通50~60メートルであり、いわゆる下海岸の中野町付近では標高70メートルを示す所もみられる。また函館山の立待岬には旧汀線高度40メートル前後の平坦面があり、これも日吉町段丘に対比されるが、一般的には平均した高度を示しており、中野町面と同様、日吉町段丘形成後の地盤運動が小さかったことを示している。
 日吉町段丘堆積物は松倉川の東と西では非常に異なっている。松倉川の西では汐泊川層を切って礫層・砂層・シルト層・粘土層・ローム層が乗るのが一般的である。松倉川支流では上流で段丘堆積物が1メートル前後、下流で2メートル余となり、下流部にやや層厚を増す傾向がみられる。これに対し松倉川本流沿いでは下流部から上流部に段丘堆積物の層厚を増す傾向があり、下流の戸倉町付近で2~3メートル、これより約1.6キロメートル上流の上湯川対岸では4メートル余となっている。高丘町、上野町の日吉町段丘堆積物は、西から東に厚くなる傾向がうかがわれる。
 以上の事実は、基盤岩高度が起伏に富んでいるためと思われる。
 松倉川支流の日吉町段丘堆積物は、基盤岩に由来した凝灰岩や泥(でい)岩が多く、そのほか上流部に安山岩、下流部に石英粗面岩が存在する。前者の安山岩は三森山溶岩より由来したものと思われ、後者の石英粗面岩はトラピスチヌ修道院付近の石英粗面岩が、松倉川本流によって下流に運ばれ、その後沿岸潮流により運搬されて堆積したものと思われる。
 松倉川本流西岸の日吉町段丘堆積物は、基盤岩の汐泊川層より由来したと思われる凝灰岩や泥岩が非常に多く、その他安山岩礫も見出される。
 桔梗(ききょう)付近の29.1メートル三角点が乗る平坦面は日吉町段丘に相当するもので、その東方では新火山性扇状地堆積物が、日吉町段丘の形成後にその上に堆積したために傾斜が急になっている。この平坦面の堆積物は、基盤岩との関係が明らかでないため全体の層厚は不明であるが、国鉄五稜郭操車場北方の露頭においては10メートル以上に達する。ここでは基盤岩は沖積層下に潜っているのに対し、松倉川河口付近の日吉町段丘では基盤岩高度は21メートル前後となっている。このことから日吉町段丘堆積物の基盤岩高度が起伏に富んでいるものと推定される。
 五稜郭操車場付近は、かつては古函館湾(後述)の一部を成しており、この付近の日吉町段丘堆積物は、溺(おぼ)れ谷堆積物として形成されたものと考えられる。すなわち、その下部堆積物が礫から砂へと変化したのは、この堆積物が1ないし2回の海進の過程において堆積したことを示している。これらの海進は原地形をそのまま被覆して堆積したものであるから、比較的急速な海面上昇下に行われたものと思われる。一方においては、砂層の上部には生痕(こん)と思われるサンドパイプ(砂管)が存在し、不完全な貝化石もあり、一時的な海水面の停滞期があったことをも表わしている。上部堆積物である礫層の示す海退期は、松倉川河口の場合と同様に、波食面を形成しながら堆積した時期であり、下部地層や基盤岩(松倉川河口の場合)を変形しながらゆっくりした海面上昇が行われたと考えられる。このことは坂本享(1972)の報告した、茨城県大洗地域の第4系の堆積状況と同一とみられる。しかし、大洗地域における見和層中部によって示されるような、何回かの海面変動を含んだ小海退期はこの地域では明らかでなく、海退期は1度ではなかったかと思われる。
 函館山山麓の立待岬の日吉町段丘堆積物も比較的粗いものが多く、海岸付近での堆積物であることを示している。基盤岩高度も20メートル前後で、松倉川河口付近と類似した値を示している。
 松倉川の東の日吉町段丘は、いわゆる銭亀沢火山灰層を厚く乗せており、基盤岩や段丘礫層との関係を明らかにする露頭が少ない。ただ、函館市東方の、いわゆる下海岸の瀬戸川流域においては、汐泊川層を切って段丘礫層が乗り、更にその上には″銭亀沢火山灰層″が乗るので、銭亀沢火山灰層の堆積したのは日吉町段丘形成後であることを明らかにしている。段丘堆積物は、瀬戸川流域では泥岩・安山岩・石英粗面岩等の円礫より成り、汐川流域の場合にはチャート・砂岩・泥岩・安山岩の礫から成り立っている。
 日吉町段丘渡島半島においては、恵山(えさん)付近の古武井(こぶい)段丘(標高60メートル)、長万部町付近の長万部段丘(標高60~40メートル)、松前半島の三ッ石段丘(標高40メートル)、檜山西海岸の熊石付近の第一段丘(標高40~30メートル)に対比され、関東地方の下末吉段丘(標高40~20メートル)にも対比される。
 下末吉段丘は関東地方にあって研究が進んでおり、小林国夫(1965)によると、下末吉段丘およびその堆積物であると認めるための基準として、次のような条件を挙げている。
 
  (1)海食崖においては下末吉段丘は20~40メートルの高度をもつ。段丘面の一般的な傾斜は他の段丘よりも急である。
  (2)若い谷が段丘面を開析しているけれども、一次的な堆積物が、なお相当開析されずに残されている。
  (3)堆積物の厚さは50メートルよりも薄く、堆積物が、より高い波食台を覆う時には10メートル程度のこともある。
  (4)穿孔貝による多くの穴が基盤岩の波食台上に、しばしば見出される。
  (5)下末吉面形成に関係した堆積物が、浅海水あるいは、しばしば汽水(海水と淡水の混合による低塩分の水)の貝層を不整合に覆っており、また、生痕による無数の砂管を埋めている。
  (6)堆積物の最上部には、しばしば酸化鉄によって汚染された砂や礫が発達している。
  (7)陸地や海岸の堆積物からはナウマン象の化石が多くの場所から発見された。
  (8)下末吉層から発見された化石から判断すれば、上部および下部は寒冷気候であり、中央部は温暖であったと思われる。多くの証拠は、下末吉時代の気候が現在よりも少し暖かかったことを示している。

 
 また、下末吉時代以来海水準が現在の海水準よりはるかに高かったということを決定する証拠がないので、下末吉時代は最後の間氷期に対比され、地中海沿岸ではモナストリアンⅡ(エーメアン)の段丘に対比されている。
 しかし、湊 井尻(1966)によると、前述したように下末吉段丘をミンデル・リス間氷期(ホルスタイン暖期)、すなわちチレニア海進によるものと考えており、下末吉段丘の時代については意見の一致をみていない。
 下末吉段丘と日吉町段丘を比較すると、高度は後者がやや高い傾向がみられ、堆積物はやや前者が厚いようである。小林国夫(1962)によると、下末吉段丘では、その堆積物である下末吉層の厚さが基盤の高さと逆相関の関係にあり、その分布の広さに比べて著しく薄い地層で、いわば薄層(ベニア)といってよいほどの印象を与えているといわれる。このことは日吉町段丘においても同様である。松倉川支流の上野町付近の日吉町段丘堆積物中には、礫の中に穿(せん)孔貝のあとを残すものが見出される。この段丘礫は基盤の汐泊川層に由来しているので、汐泊川層上部にはかつて穿孔貝が生存していたことを示している。すなわち、上野町付近の日吉町段丘は、下末吉段丘と同様波食台上に形成されたものと考えられる。しかし一方において、国鉄五稜郭操車場北方の日吉町段丘においては、前述したように基盤岩は沖(ちゅう)積層下に潜り、その堆積物は、下部は数度の海進・海退の過程において堆積したものであり、最上部は波食台上の堆積物で、上野町のそれと対比されるので、日吉町段丘の基盤岩は起伏に富んでいたものと思われる。この点も下末吉段丘と日吉町段丘は類似していると思われる。
 下末吉段丘の時代は前述のようにまだ決定されておらないが、日吉町段丘の時代については幾つかの資料が報告されている。すなわち、戸井町日吉町段丘堆積物上部の粘土層中の木片の14C年代測定値(カーボン・デイタム)は、学習院大学木越研究室の測定によると、33,600 +3,700 -1,600 B.P.とされている。
 14C年代測定法とはアメリカ合衆国のW.F.Libbyによって始められた方法である。これは生物遺体中の放射性炭素は放射線を放出することによって、次第にその質量を減じていくが、丁度半分になるまで(半減期)に、約5,680年かかる。このことを利用して生物の遺体などを包含している地層の絶対年代を測定する方法であり、普通は1950年を基準にして何年前であるかをB.P.で表わしている。
 噴火湾沿岸の長万部町において、日吉町段丘に対比される長万部段丘の礫層上部の泥炭層中にあった木片の14C年代は、同じく木越研究室により24,350 +1550 -1,350 年B.P.とされている。
 また檜山郡熊石町付近の第2段丘も前述したように日吉町段丘に対比されるものであるが、西浜付近では基盤岩の上に約4メートルの砂礫層が乗っていて、この砂礫層中に木片が包含されており、木片の属する時代は段丘礫層の堆積時代そのものを表わしていると思われるが、その14C年代は木越研究室の測定により27,500 +2,000 -1,500 年B.P.とされている。
 これら14C年代との関係において日吉町段丘の時代を考えると、ゲトワイゲル間氷期もしくは、リス・ウルム間氷期あたりに対比されるのではないかと思われる。